(すいにんてんのう 紀元前69年1月27日~70年8月8日)とは、第11代天皇である。
治世時には相撲と発祥とされる死闘が行われた他、死後に殉死を禁止して埴輪を埋めるようにした開明的な人物だったとされている。
崇神天皇と御間城姫命(みまきひめのみこと)の間に第三皇子として生まれる。
崇神天皇がみた夢により立太子され、崇神天皇がお隠れになられると即位した。
即位5年目の紀元前25年、強力と蹴り技の名手として大和にその名を轟かせていた当麻蹴速(たけまのけはや)と、垂仁天皇が出雲から召し寄せた野見宿禰(のみのすくね)を対戦させた。両雄の激突は激しいけたぐり合いとなった結果、野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝利した。この死闘が相撲の起源とされている。
即位28年目には殉死を禁止する令を発し、即位32年目に二人目の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際は、野見宿禰の進言をいれて埴輪を殉死者の代わりに埋葬した。
即位35年目には各地にて治水を行って農業を振興させ、99年の治世の後に140歳(古事記では153歳)でお隠れになられた。
垂仁天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、日本書紀では活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)と呼ばれている。
殉死を禁止し、農業を振興して開明的な君主と言われる垂仁天皇だが、古事記にはひとつの悲劇が記されている。
垂仁天皇の最初の皇后狭穂姫命(さほひめのみこと)は、ある日実兄である沙本毘古王(さほひこおう※日本書紀では狭穂彦王) から、
と問われ、狭穂姫命は
と答えた為、実兄から垂仁天皇を暗殺するように命じられた。
しかし狭穂姫命は垂仁天皇も同等に愛していた為に殺すことが出来ず、垂仁天皇の予知夢を告げられた狭穂姫命は、暗殺未遂の件を伝えて実兄のもとへと去って行った。
暗殺者となった皇后を討伐せざるをえない垂仁天皇だったが、狭穂姫命を愛していたこと、そしてそのお腹のなかには愛しい子がいた事もあり、派遣した討伐軍に皇后と子の身柄を確保するように命じた。
討伐軍をおくられた沙本毘古王は皇后とともに籠城したものの敗れ、炎上する猛火の中で狭穂姫命は一人の皇子を出産した。
垂仁天皇が派遣した兵士は、皇子を引き渡そうとする狭穂姫命をともに連れ帰ろうとするもかなわず、皇子に誉津別命(ほむつわけのみこと)と根づけるが良いでしょうとの言葉を残し、燃え盛る炎の中で兄に殉じた。
| 10代 | 11代 | 12代 |
| 崇神天皇(すじんてんのう) 紀元前97~紀元前30 |
垂仁天皇(すいにんてんのう) 紀元前29~70 |
景行天皇(けいこうてんのう) 71~130 |
掲示板
2 ななしのよっしん
2017/01/16(月) 22:44:55 ID: sKbex+Ff4Q
続く景行天皇・成務天皇・仲哀天皇と並んで学術的には架空の天皇とされているお方
3 ななしのよっしん
2020/03/06(金) 06:45:29 ID: Wj7OOXUuqX
妻の兄が反乱を起こしたがその影響は妻が自殺しかことにとどまったとか息子が口のきけない子だったとか架空だとしたらなんでそんな話作ったの?と思う逸話が多いので実在していた可能性が非常に高い
4 ななしのよっしん
2021/11/20(土) 20:04:23 ID: Gn3K7bKmjQ
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最終更新:2025/12/12(金) 14:00
最終更新:2025/12/12(金) 13:00
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