少弐政興(しょうに・まさおき 1534?~?)とは、肥前国の戦国武将である。
少弐資元の三男(松浦鎮次第では四男とも)。兄に少弐冬尚、千葉胤頼。弟に少弐元盛、松浦鎮(兄とも)。
1559年、兄・少弐冬尚と千葉胤頼が龍造寺隆信によって殺されると、家臣である馬場鑑周を頼って匿われた。
その後、兄の敵討ちに燃えた政興は長年の盟友である大友家当主・大友宗麟(当時は義鎮)に密かに連絡し少弐氏再興の機会を伺った。
兄の死から3年経過した1562年には隆信は東肥前の覇権を確立。
肥前の諸大名たちはこの異常事態に危機感をおぼえて政興と手を結んだ。
1563年、馬場鑑周支援の下、有馬晴純・波多鎮(波多親とも。有馬義貞の三男という)・大村純忠・多久宗利・西郷純尚(晴純の弟・西郷純久の孫)などの西肥前などの諸大名と共に挙兵した。(ほとんど有馬氏系大名)
しかしまもなく西肥前の諸大名は隆信により敗れて領土の失地を許してしまう。
これにより隆信は西肥前・南肥前にも領土を拡大することとなった。
1564年、隆信の先の戦いの勝利により次第に攻勢が強くなり、肥前中野城に閉じ込められるようになり政興は大きく苦戦する。
家臣であり姻戚である横岳氏などの少弐氏旧臣などの支援のもとで頑強に抵抗するが、支援者である馬場鑑周はとうとう降伏してしまった。(降伏は1565年とも)
これによりほぼ孤立状態で隆信との戦わなければならなくなった。
それでも隆信に苦戦しながらも頑強な粘りで抵抗。武勇の優れたところを発揮した。
しかし頼みの綱である大友宗麟は豊前国という名の爆弾領土を抱えており、この時中国地方の大名・毛利元就と和睦していたものの一触即発の状態であった。
また反乱因子である高橋鑑種の存在もあり支援を受けても隆信の攻撃を凌ぐ程度であった。
1568年、毛利元就により立花山城主・立花鑑載が毛利方に寝返り、戸次鑑連(のちの立花道雪)が鎮圧した。
1569年、やっと大友宗麟による大軍の援軍を得る。が、しかしまたも毛利元就による侵攻により肥前から筑前へと兵を向けてしまった。これが戦国時代版多々良浜の戦いとなる。
1570年、毛利氏を九州から駆逐し尼子勝久と対峙してるところを見計らったところで、政興援助・隆信討伐を名目に肥前へと攻め入った。総大将は大友親貞で軍勢は6万を号したという。(今山の戦い)
しかし、鍋島直茂の奇計による大友親貞の討死により大友軍は瓦解、豊後へと逃走していった。
これ以降政興は大きく苦戦を強いることになった。
1572年、とうとう政興は10年間に及ぶ隆信への抵抗を諦めて降伏する。
こうして政興は九州を去り、大友氏の故地である相模国へと向かったとされている。
これ以降の動向は不明。
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最終更新:2025/12/11(木) 09:00
最終更新:2025/12/11(木) 08:00
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