平沼定晴 単語

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平沼定晴(ひらぬま さだはる)とは、元プロ野球選手である。

概要

1965年3月27日生まれ。千葉県習志野市出身。

千葉商科大学付属高等学校に進学。全の速球として鳴らし、3年時に春の甲子園大会エースとして出場。の県大会ではまさかの2回戦敗退に終わっているが、平沼自身は12奪三振記録するなど好投している。

1982年ドラフト会議にて、中日ドラゴンズから2位名を受け入団。同期入団には鹿島忠彦野利勝がいた。

1984年、一軍デビューを果たし、4試合に登板

1985年以降は中継ぎ投手として登板を重ねたが、1985年は20試合に登板して防御率12.63、1986年は34試合に登板してプロ勝利を挙げたが、防御率は4.44という成績に終わっている。

1986年シーズンオフ中日三冠王を獲得した落合博満を獲得するため、であった牛島和彦上川誠二に加え、若手の桑田茂、そして平沼の4名をロッテオリオンズ放出することを決めた。いわゆる『世紀のトレード』と呼ばれた移籍の一員となり、ロッテへと舞台を移すこととなった。

ロッテ移籍後、チーム中継ぎ投手として毎年のように30試合以上に登板

移籍初年度の1987年には36試合に登板して、1勝、防御率3.21と安定感を発揮。

1991年1992年にはキャリアハイとある40試合に登板1991年は4勝6敗1セーブ防御率3.47を記録1992年には、6勝2敗、防御率2.42と好成績を残し、キャリア一の投・完封勝利記録している。

1995年、10試合で防御率9.53と打ち込まれ、シーズンオフに、仁村徹酒井忠晴山本とのトレードで、前田幸長樋口一紀とともに中日へ移籍。10年ぶりに古巣に復帰することとなった。

中日では2シーズンで17試合の登板にとどまり、1997年シーズン終了後、西武ライオンズへ移籍。西武では1シーズン6試合の登板に終わり、同年限りで現役を引退

1999年からは中日打撃投手を務めていたが、2009年頃から肘を壊し、騙し騙しで投球を続けていた。しかし、2011年に肘が限界を迎えてしまい、肘が曲がらなくなってしまう「ロック」という状態となり、同年限りで打撃投手引退

その後は2023年まで用具係を務めた後、2024年からは選手寮「昇館」の館長に就任している。

人物・エピソード

重い直球とマウンド度胸の良さを武器に活躍したリリーバー。回を跨いでの投球が多かった。

1989年西武戦で清原和博相手に死球を与え、バットを投げつけられた上にヒップアタックを喰らわせられて大乱闘にまで発展したシーンが有名である。なお、引退後に和解しており、2022年には清原You Tubeチャンネルにて共演し、清原からファーストミットをプレゼントされている。

2010年には、貢献度の高い裏方スタッフを表する「機構スタッフ部門賞」という賞を受賞している。

通算成績

投手成績

通算:15年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 342 1 1 18 22 5 --- .450 602.2 266 391 350 322 4.81

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