┌33推古天皇
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29欽明天皇┼30敏達天皇─彦人大兄─34舒明天皇─…
├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)
├32崇峻天皇
└穴穂部皇子
飛鳥時代の王権はまだ未完成の状態にあり、朝廷では大豪族の物部氏と蘇我氏が大きな権力を握っていた。両氏は仏教崇拝を巡って対立を深め、崇峻天皇の代で蘇我馬子が物部守屋を滅ぼすことで決着を見る。馬子はやがて崇峻とも反目するようになり、崇峻を暗殺してしまう。その後に大王になったのが、敏達の大后(皇后)であった額田部皇女、推古天皇である。日本書紀によれば彼女はとても美人であったらしく、即位以前には異母兄の穴穂部皇子から強姦されそうにもなっている。
推古の治世を助けたのは大臣の馬子と、「摂政」の厩戸皇子(聖徳太子)である。馬子と推古は叔父・姪、推古と厩戸は叔母・甥という近親関係であり、三者は血縁的にも政治的に密接に結びついてた。書紀には推古は「皇太子」の厩戸に「万機(全て)」の政治を委ねたとあるが、これは書紀編纂期の潤色である。当時20歳の厩戸が何十年も政界の中心にいた43歳の蘇我馬子より政治力があったとは考えられず、推古の執政をリードしたのは馬子と見られる。そして厩戸は次世代の大王候補として政治に携わる存在であった。
35年にも及ぶ推古の時代は冠位十二階の制定、憲法十七条の公布など後の律令体制につながる大きな改革が数多く行われた。またそれまでの大王は対外的にも国内的にも力が弱かったため権威の源泉を求めて中華皇帝の冊封を受けていたが、推古朝に派遣された遣隋使では冊封を求めず大国の隋と「対等外交」を行ったと言われる。「またこの時代は仏教の振興が促進され、法隆寺や四天王寺など現在にも伝わる仏寺や仏塔が数多く創建された。それは単なる信仰の問題ではなく、中国の南北朝以来、中国王朝が仏教を王権強化に利用したのを模倣して、日本も大王権力の向上を狙ってのものであった。
推古の朝は長きにわたり「皇太子」の厩戸の方が先に薨去してしまう。蜜月の関係にあった馬子にも置いておかれ老境にあった推古は、次世代大王候補の山背大兄王(厩戸の子)と田村皇子(舒明天皇)を呼び、それぞれに遺訓を残してから崩御した。その遺骸は「今は飢饉なので大規模な陵を作ると民に迷惑だ」という彼女の遺言に従って、愛息の竹田皇子の陵に合葬された。
| 32代 | 33代 | 34代 |
| 崇峻天皇(すしゅんてんのう) 587~592 |
推古天皇(すいこてんのう) 593~628 |
舒明天皇(じょめいてんのう) 629~641 |
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最終更新:2025/12/09(火) 05:00
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