厩戸皇子(うまやどのみこ、~おうじ)とは、飛鳥時代の皇族で、推古天皇の摂政。
一般的には「聖徳太子」として知られており、旧一万円札に肖像が使用されるなど広く馴染み深い人物である
574年に生まれる。父は蘇我堅塩媛所生である用明天皇、母は蘇我小姉君所生である穴穂部王女で、生涯にわたって蘇我氏との関係が深かった。
蘇我氏が仏教を推進していたこともあり、幼少より仏法を尊んだ。
585年に父が用明天皇として即位するものの、2年後に崩御。その後蘇我氏と物部氏が武力衝突を起こすようになり、両者による戦争へと発展した。厩戸皇子は蘇我軍に参加、四天王像を彫って祈願するなど精神的な支柱となり、勝利に貢献した。
593年に蘇我馬子が推挙する豊御食炊屋姫が最初の女帝、推古天皇として即位するとこれを支え、「以和為貴(和を以って貴しと為す)」で知られる十七条憲法や冠位十二階といった政策を取り入れ、豪族の寄り集まりとしての色合いが強かった倭国の国家体制の刷新を図った(なお、この時に就いたとされる皇太子という地位、摂政という職位は当時はまだ成立していない)。かつては「横暴な蘇我氏と対抗しながら天皇中心の世の中を目指していった」とされてきたが、現在の研究では蘇我氏とは基本的に協調関係にあったというのが主流である。そもそも厩戸皇子は両親ともに蘇我氏の出であり、推古天皇もまた蘇我堅塩媛との間に生まれた王女である。これに蘇我馬子を加えて血縁を軸とした政権運営であった。
607年には、小野妹子を使者として遣隋使を派遣する。その際の国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と記した。朝貢を装いつつも、実際には倭と隋は対等関係であると示したものである。
当時の隋の皇帝、煬帝は激怒したものの、隋は高句麗からの軍勢に頭を悩ませていたため、これ以上関係をこじらせるべきではないとして関係を継続、返書には「倭皇」として同等であることを認めた。
それに対して改めて国書を隋に送り、そこで初めて、大王(おおきみ)を「天皇」 として記した。
同年には本拠地である斑鳩(いかるが)に法隆寺を建立した。法隆寺は7世紀後半に一度焼失してしまうがそれでも現存する世界最古の木造建築であり、世界遺産にも指定されている。
622年に薨去。後世には太子信仰が生まれ、庶民の間にも浸透していった。
「聖徳太子」という名はもちろん後世につけられた尊称であり、彼の本名は「厩戸皇子」「厩戸王」である…と思われがちだが、実は教科書等で使われているこれらの名前は古代の資料には存在していない。古事記では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」、日本書紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」と表記されており、その他の資料からも名前の読み方が「ウマヤト(ド)」であったことが確実視されていることから、戦後になって提唱された呼び名がそのまま定着したものである。
このような事情もあって、教育現場では彼の呼称について二転三転を繰り返している。
掲示板
30 ななしのよっしん
2024/04/26(金) 17:15:08 ID: SiqGSe1pCJ
>>27
ただ、厩戸皇子も「キリスト教の逸話が伝来したことが由来になって古事記成立時に盛り込まれた」とも言われてるために不用意に断言も危険。なんせ古事記自体も懐風藻の40年ほど前にようやく成立した史書という意味合いもあるからね。
正直、ここいらの諡に関しては歴史的にも結構バラバラで、「生前呼ばれなかったからアウト」とすると世界の史書が結構派手に名称だけで弄られることが多くなってしまうのよね。
31 ななしのよっしん
2024/08/12(月) 11:44:28 ID: lIePLGOWfA
自分の気に食わない意見イってるやつは全部左翼って頭イってるのか
32 ななしのよっしん
2024/08/12(月) 12:01:09 ID: lIePLGOWfA
聖徳太子って仏教が盛んになった中世では神聖視されたけど儒教が盛んになった近世だと馬子と組んで崇峻暗殺に組した朝敵扱いなんだよな
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/27(水) 14:00
最終更新:2024/11/27(水) 14:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。