| OB | |
|---|---|
| 松本幸行 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市 |
| 生年月日 | 1947年6月5日 |
| 身長 体重 |
182cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 左投左打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1969年ドラフト4位 |
| 引退 | 1981年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
大阪商業大学付属高等学校に進学。ただ、高校時代は全くの無名の選手であった。
卒業後、デュプロ印刷機に入社。営業として外回りの仕事をしながら野球をプレー。1969年にチームを初の都市対抗野球大会に導き、2回戦で電電関東(後のNTT関東硬式野球部)戦で先発登板するも敗退している。
チームを初の都市対抗に導いたことを評価されてか、中日ドラゴンズからドラフト4位で指名された。
初年度の1970年は、22試合に登板し2勝3敗、防御率2.55の成績を残す。
1971年からは登板数を増やし先発投手陣の一角を担った。1972年には稲葉光雄に次ぐ13勝を挙げ、初の二桁勝利を達成。
1974年にはチームのエースとして20勝9敗の成績で星野仙一、鈴木孝政らとともに投手陣を支え、チームのリーグ優勝に貢献。松本は最多勝と最高勝率のタイトルを受賞した。
1975年には初の開幕投手を努め、17勝15敗、防御率2.41の成績を残す。
1976年、15勝をあげるも15敗を喫し、防御率も前年より悪化の3.96と成績を落とす。この年以降成績は下降線をたどり、1978年には6勝12敗と大きく負け越した。
1980年、トレードで阪急ブレーブスへ移籍。移籍決定時には不満を口にしたものの、入団会見時点では「投げさせてもらえればいくらでも勝ちます、任せてください」と気持ちの切り替えは早かった。
移籍初年度は防御率こそ3.88だったもの、10勝5敗と結果を残した。
だが、1981年には3勝4敗、防御率6.53と今一つな成績に終わった。シーズン終了後、周囲から慰留があったものの、現役を引退。
キャッチボールのようなゆったりとした投球フォームで打ち取る個性派投手。ストレートは130km/h台と決して速くはなかったものの、クセ球とシンカーのように変化する球種、抜群の制球力、そして代名詞とも呼べるテンポの良さで打者を翻弄していた。
ノーサインで投げているとまで言われたテンポの早い投法から「早投げのまっちゃん」とも呼ばれた。実際にはノーサインではなく、捕手からの返球を受ける際や、振りかぶりながらサインを確認していたとのこと。なお、遠征先では遅刻の常習犯であったとのことである。
ボール球をほぼ投げずハイテンポで投げるため、松本が先発する際の試合時間はかなり短かった。そのため、同僚や審判たちからは有難がられた一方で、テレビ局は予定より早く中継が終了してしまうため、松本が投げる日には穴埋め用の番組が予め用意されていたという。
通算111勝のうち実に28勝が対阪神戦という阪神キラーでもあった。
豪快な性格でも知られ、私生活は「宵越しの銭は持たない」を地で行くタイプ。初対面の相手のも冗談を飛ばし、お酒や夜遊びに関するエピソードも多い。
| 通算:12年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 389 | 59 | 14 | 111 | 98 | 3 | --- | .531 | 1840.2 | 428 | 638 | 820 | 722 | 3.53 | 1.24 |
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最終更新:2025/12/06(土) 05:00
最終更新:2025/12/06(土) 04:00
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