| OB | |
|---|---|
| 森田幸一 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市 |
| 生年月日 | 1963年1月7日 |
| 身長 体重 |
173cm 68kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1990年 ドラフト5位 |
| 引退 | 1995年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
北陽高等学校へ進学。2年時には夏の甲子園大会に出場している。
卒業後、近畿大学へ進学。投手としてプレーしていたが、登板機会は少なかった。なお、在学中に結婚している。
大学卒業後、住友金属に入社。1989年、松下電器の補強選手として出場。同年秋には阪神タイガースの入団テストを受験したが、会社側から「プロへ行きたいならドラフトにかかれ」と慰留され残留。1990年の都市対抗にも補強選手として出場。
1990年ドラフト会議にて、ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。同期には矢野輝弘がいた。
1991年、キャンプやオープン戦で結果を残し、開幕一軍メンバー入りを果たす。開幕戦で3点ビハインドの場面で起用され、いきなりデビューを果たすと、7回を三者凡退に抑え、8回には満塁のピンチを凌ぎ、その後打線が逆転打を放って、開幕戦から勝利を挙げる。球界では22年ぶりとなる、新人投手の開幕戦勝利であった。更に次のカードである広島東洋カープ戦では、リリーフながら打席が回ってくると、その打席で本塁打を放ち、新人投手ながら初打席初本塁打を記録。その後、故障で離脱している与田剛に代わり、抑え投手として起用され、夏にはオールスターゲームにも初出場。最終的には50試合に登板して、10勝3敗17セーブ、防御率3.03と好成績を残し、新人王にも選ばれた。
1992年、与田の復帰によりセットアッパーに転向。2年連続で開幕戦勝利投手となり、夏以降は先発投手としても起用された。41試合に登板し、6勝5敗4セーブ、防御率4.05を記録。しかし、チームの起用法に不満を持った森田はオフにトレードを志願。だが、移籍交渉は不調に終わり、結局残留することになった。
1993年は二軍で開幕を迎え、その後、一軍に昇格したが、2勝3敗3セーブ、防御率4.76と精彩を欠いた。
1994年、遊離軟骨を発症。サイドスローに挑戦するなど試行錯誤を試みたが、同年はわずか4試合の登板に終わった。
1995年、一軍登板なしに終わり、オフには星野仙一監督の戦力構想から外れ、シーズンオフに戦力外通告を受けた。その後、1年間ほど治療に専念し、プロ野球復帰を目指したが、限界を感じ現役を引退。
引退後は一般企業で勤務する傍ら、野球教室でコーチを務めることもあった。
2019年からは社会人野球のクラブチーム、大阪ホークスドリームでコーチを務めている。
小柄な体を目いっぱいに使い、力のある速球で打者をねじ伏せたリリーフエース。リリーフ投手故に披露する場は少なかったが、打撃も得意としていた。
球団にトレードを志願した後、マスコミがトレード志願をリークしたが、リーク情報は『女性の影が』『暴力団関係者とのトラブル』『在京球団以外は拒否』など、根も葉もない捏造情報がほとんどであった。
| 通算:4年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 117 | 1 | 0 | 18 | 13 | 24 | --- | .581 | 216.1 | 67 | 157 | 105 | 93 | 3.87 |
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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