比企能員の変 単語


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比企能員の変とは、建仁3年(1203年)9月2日により発生した鎌倉幕府内部の政変である。

企の乱」とも呼ぶが、企一族には謀反の意思は北条時政捏造だと見られる。

概要

鎌倉幕府2代将軍・源頼家夫かつ頼家長男・一の外祖父として権勢を振るっていた比企能員とその一族が、北条時政の策略によって粛清・滅亡させられた事件である。

以前から病気がちであった頼が危篤状態に陥ったことで将軍後継問題が発生、一を推す員と頼・千(後の源実朝)を推す時政の間で対立が表面化し軍事行動を伴う政変となった。

この事件は『吾妻鏡』と『愚管抄』を始めとする側の資料で事件の経過が異なっており、『吾妻鏡』は員が謀反を起こそうとしたので時政がカウンター的に先に手を下した、と北条方に大義名分があったとする一方で、『愚管抄』には一将軍継承により員の世になることを恐れた時政が誅殺したことになっている。『吾妻鏡』には北条正当化的とした曲解が多く、『愚管抄』の記述が支持される事が多い。

企一族の排斥に成功し、自身がである千=実将軍に就任した事で時政は幕府の実権を握ることに成功したが、滅んだ企一族の領地を巡って畠山氏と対立するようになる。

背景

比企一族と将軍家

企一族と将軍のつながりは頼朝企尼』によるところが大きい。頼朝平治の乱での敗北の後伊豆へと配流になった際に、夫・掃部允(本名は企遠宗という説があるがはっきりしない)と共に企に下向。その後、頼朝に20年もの間などの物資の仕送りをしていた。掃部允は頼朝源義朝の配下で、その縁からになったと見られる。

企尼には男子が居なかったため、掃部允が亡くなると甥である員が猶子となり督を継いだ。寿永元年(1182年)には鎌倉員の邸宅で政子が頼出産すると員がとして選ばれる。

その後の員は治承・寿永の乱州合戦に従軍している。州合戦時には北陸道大将軍に任命されており、頼朝の信任も厚かったと見られている。

建久9年(1198年)には・若狭局が頼との子・一出産員は将軍の外戚となる。

頼朝・頼・一と三世代に渡り将軍の直系と強い関係性を持っている事からも明らかなように、員を始めとする企一族が将軍を支える事は既定路線として想定されていたようである。

阿野全成と頼家の杞憂

阿野全成源義朝の七男で頼朝とは異母兄弟である。平治の乱の時点では7歳と幼いこともあってか、乱後は京都醍醐寺に預けられ出させられる。しかし、以仁王旨を知ると密かに寺を抜け出し東に向かい頼朝に合流する。頼朝兄弟の中では最速の合流であり、頼朝は泣いて喜んだと伝わる。

合流後は御家人として活動していたようで、政子の阿波局結婚。すると阿波局は千となるなど、言及こそ少ないものの同義経とは違って頼朝からはだいぶ信用されていたようである。

阿波局の存在もあり、頼朝の死後は千を擁する・時政と繋がり甥・頼と対立。しかし、建仁3年(1203年)5月19日に頼謀反の容疑をかけられて御所に閉されると、翌には誅殺される。この際頼阿波局逮捕も命ずるが、これは政子の手によって拒否される。

阿波局梶原景時の変の火付け役である。頼としては忠臣・梶原景時を失った事へのカウンターであると共に、病気がちな自身と幼い一の将来を考えた時に対立する人間…ましてや頼朝という力の高い人間を自身の威が及ぶ内に力化・排除することを望むのは当然の事と言える。

この頼杞憂は、自分自身が危篤状態に陥ることで最悪の形で的中する。

経過

吾妻鏡』では『比企能員が先に手を出そうとしたから先に殺った。正当防衛である』のである。ただし『吾妻鏡』は後世北条氏が編纂したものであり、北条氏にとって不名誉な事は正当化的とした曲解が多分に含まれている事を留意しなければならない。

一方で『愚管抄』では『一への継承によって立場を失う事を恐れた時政のクーデター』というである。その他の当時のの同時代資料には同様の内容が多く見られる。

以下に両資料の事件経過を簡単にまとめる。

吾妻鏡による記述

建仁3年(1203年)8月27日、頼の病状が深刻化・危篤状態となったため相続の措置が取られる。この結果、一関東28地頭職と守護の任命権(諸惣守護職)を、千関西38地頭職の相続が決まるも、分割相続に不満を爆発させた員は謀反を企てたとされる。

9月2日員は、・若狭局経由で頼に時政討伐を訴えると、病床の頼員を呼び寄せこれを承認した。これを何故か偶然居合わせた政子が障子のから立ち聞きし時政に通報。すると時政は事にかこつけて員を呼び寄せるとこれを誅殺(一族からは必死で止められるも、謀反が怪しまれては困ると軽装で向かったとされる。)。員の死を悟った企一族は一の館に籠もるも、北条義時大将とする御家人達の軍勢の猛攻を防ぎきれず館に火を放ち滅亡、一焼死したとされる。

9月5日、頼奇跡的に危篤状態を脱するも、一企一族もすでにこの世に居ない事を知らされると昂。心・仁田忠常和田義盛に宛てて時政討伐の御教書を送るも、義盛はこの御教書を持って時政の下に馳せ参じる。

9月6日仁田忠常とその達が時政の手によって誅殺される。

9月7日、頼が政子に出を強制される。

9月15日、千征夷大将軍の宣旨が下る。

9月21日、時政と大江広元の間で評議が開かれ、頼鎌倉追放が決定する。

愚管抄による記述

建仁3年(1203年)8月30日大江広元の邸宅で病状の悪化した頼は自らの意志で出を決意し一へと全権を継承する事を決める。外戚であった員が後見人になるのは明らかであった。

9月2日、一への権限委譲=員の全盛時代の到来になる事を恐れた時政は、員を屋敷に呼びつけると仁田忠常に殺させる。忠常は頼の状態を知らされていなかった。そのまま時政は一に居る館へと軍勢を差し向ける。一・若狭局に抱かれて逃亡することに成功するも、企一族は滅亡の憂いに合う。

同日、症状が回復しつつあった頼企一族の滅亡を聞き昂。病み上がりの中自らの手で時政討伐を決意するも、太刀を持った所を政子に押さえつけられてしまう。

9月5日、頼の状態を知った忠常が、義時に討たれる

9月10日、頼が政子の手によって修善寺に閉される。

11月3日、逃亡した一だったが義時の手勢によって発見・殺され、埋められる。

変後

政務の取れない幼い千に変わって実権を握ったのは時政である。戦後処理で頼を一掃すると10月には政所別当と合わせて執権に就任し、事実上幕府をることに成功する。

それと同時に婿である武蔵守・平賀朝雅京都守護の職務で上武蔵務は時政が代行する。この際滅ぼした企氏の領地を勢力下に治めようとしたため、勢力圏が重なる畠山氏と対立するようになる(畠山重忠の乱)。

修善寺に閉された頼は翌年北条の手のものによって暗殺される。『吾妻鏡』が非常に蛋に頼が死んだことを記す一方で、『愚管抄』ではその念の最期を生々しく伝えている。

時政の覚悟

9月7日に『頼の死』と『千への将軍就任要請』を伝える鎌倉の使者が到着している。当時の鎌倉京都の進行速度を考えると、9月1日~2日頃に鎌倉を出発したと考えられる。タイミングとしては企一族への襲撃前後である。

危篤状態であった事は間違いないにしろ、この時点ではまだ死んでいない頼を死んだ事にして将軍就任要請の使者を送っているだけでもだいぶなのだが、最大の問題は『将軍就任要請』の相手が一ではなく千だということである。

そもそも千将軍就任にはに3つのクリアしなければならない問題がある。

  1. 源頼家…自分の子である一将軍を継承させようとしている
  2. 比企能員…自分の孫である一将軍を継承させようとしている
  3. …前将軍長男という最も将軍継承に相応しい立場の人間

この3人の内かが存在しているだけで千将軍就任はスムーズに行うことができない。にも関わらず9月1日の時点でこの使者が鎌倉を出立している。つまり時政はの危篤時点で『比企能員』と『一』の殺を決めていた、と考えられる。(頼は病死する想定なので自ら手を下す必要はない。)

あくまで推測ではあるが、時政は頼阿野全成誅殺の時点で『病気の頼に時間がい』事を察しており、頼の病状の進行次第で計画が発動できるように段取りしていた可性もある。

そんな時政の一の誤算は頼が息を吹き返した事だったと思われる。しかしすでに頼抵抗する術はもはや残っていなかった。病み上がりの身ながら自らの手で祖父・時政を成敗しようとするも、実のにそれを止められた頼の感情は想像を絶する所がある。

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