| OB | |
|---|---|
| 小野和幸 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 秋田県秋田市 |
| 生年月日 | 1962年8月19日 |
| 身長 体重 |
186cm 93kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1980年 ドラフト外 |
| 引退 | 1995年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
1962年8月19日生まれ。秋田県秋田市出身。小学3年生時から本格的に野球を始めた。
秋田県立金足農業高等学校に進学。1年秋からチームのエースとして活躍したが、甲子園大会には縁がなかった。全国的にはほぼ無名の存在であったが、それでも複数のプロ球団から大型右腕と注目されていた。
1980年、ドラフト外で西武ライオンズに入団。日本鋼管入社が内定していたが、「社会人で3年間やってプロ入りするなら、最初からプロのほうがいい」とプロ入りを決めた。
初年度の1981年、二軍で15勝を挙げ、イースタン・リーグ最多勝を受賞。1983年にも最多勝を受賞し、1984年には最優秀のタイトルを獲得するなど、二軍では他を圧倒していた。だが、当時の西武先発陣は層が厚く、小野も一軍ではなかなか結果が残せず、所謂『二軍の帝王』のような位置づけになってしまっていた。
1985年、ローテーションの谷間を埋めるように10試合に先発し、3勝を挙げた。日本シリーズでも先発したが、阪神タイガース相手に打ち込まれ、1回持たずに降板している。
1986年、開幕から好調を維持し、前半戦は5勝0敗、防御率も2点台と活躍し、初めてオールスターゲームにも出場。しかし、後半戦は1勝5敗と調子を崩し、同年は6勝5敗、防御率4.58という成績の終わった。
1987年、初めて規定投球回に到達したものの、4勝11敗、防御率3.86と大きく負け越してしまう。オフに平野謙とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。
1988年、打たせて取る投球で覚醒。4月に3勝を挙げると、故障離脱した小松辰雄に代わり、エースとして投手陣を引っ張り、夏にはオールスターゲームにも出場。最終的には18勝4敗、防御率2.60、勝率.818と好成績を残し、チームのセ・リーグ制覇に貢献。惜しくもMVPは同僚の郭源治に譲ったが、最多勝・最高勝率に加え、ベストナイン・最優秀投手にも選ばれるなど飛躍の一年となった。
1989年、前年の活躍もあり開幕投手を任されたが、フォームを崩してしまい、1勝8敗、防御率6.20と失速。翌年は5勝を挙げたが、以降は故障もあり、1991年・1993年は一軍登板なしに終わるなど、輝きを取り戻せなかった。
1994年、千葉ロッテマリーンズへ移籍。トレード相手であった平野と同僚となった。1994年は1416日ぶりの勝利を含む4勝を挙げた。
引退後、ロッテや台湾プロ野球の統一ライオンズでは投手コーチを、独立リーグの徳島インディゴソックスでは監督を務めた。
抜群の制球力と巧みな投球術で活躍した先発右腕。内角を攻める強気な姿勢も持ち味としていた。
投球カウントをフルに使い打者を打ち取る姿から、「フルカウント投手」とも呼ばれた。
| 通算:12年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 151 | 16 | 4 | 43 | 39 | 0 | --- | .524 | 774.0 | 216 | 446 | 370 | 346 | 4.19 |
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/07(日) 07:00
最終更新:2025/12/07(日) 07:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。