ミック・ドゥーハン(Mick Doohan)とは、元・MotoGPライダーである。
マイケル・ドゥーハンと正式名称で呼ばれることも多い。
1965年6月4日、オーストラリア東海岸のブリズベン近くのゴールドコーストで生まれた。
1994年から1998年までMotoGP最大排気量クラスの5連覇を達成した。
愛称はスイカ(ヘルメットがどう見てもスイカなので)
戦歴
ダートトラックで腕を磨く
1965年6月4日、オーストラリア東海岸のブリズベン近くのゴールドコーストで生まれた。
オーストラリアという国はロードレース(アスファルト舗装した路面を走る競技)がまあまあ人気なのだが、それよりもさらに盛んなのが土の路面をオフロード車で走る競技である。モトクロス(起伏のある土の路面をジャンプしながら走る競技)や、ダートトラック(平坦な土の路面を走る競技)が多くの豪州人に好まれている。
ミック・ドゥーハンもそのご多分に漏れず、子供の頃から土の路面をバイクで走り回っていた。8歳ぐらいからひたすらダートトラックの競技をしていたという。
ダートトラックというと、日本語版Wikipediaには「左回りのオーバル形状(楕円形形状)のコースで行う」と記述されていて、それが一般的な形式とされる。ところがオーストラリアにおけるダートトラックには、オーバル形状ではなく右に左にとコーナーが続くコースもあったと、ミックは述懐している。
ダートトラックは、マシンが滑りやすい。そのためリアブレーキを駆使する必要がある。マシンを意図的に滑らせるのにも使うし、マシンの滑りを減らすときにもリアブレーキを使う。このためダートトラック出身者はリアブレーキを使うのが上手い人が多いのだが、ミックもまさにそういうライダーだった。
ロードレースに転向する。市販車レースで好走する
ダートトラックで腕を磨いたミックは、少しずつロードレースを始めた。
とはいっても、1984年(19歳)に2回だけ、1985年(20歳)にもちょっとだけ、1986年(21歳)にインターステイツレース(オーストラリアの州をまたいで行われる選手権)に何度か出た程度である。それらの年は、ロードに転向したとはとても言えないような状況だった。ダートトラックのレースの方が主体だった。
本格的にロードレースを始めたのが1987年(22歳)のころで、ヤマハ・オーストラリアのチームに所属して、TT-F1世界選手権に参戦するようになった。TT-F1世界選手権は4スト750ccのマシンと2スト500ccのマシンが一緒に走るレースで、1977年から1990年まで行われた。英語版Wikipediaもある。
1987年のTT-F1世界選手権の日本ラウンドはスポーツランドすごうで行われた。そこにミックはやってきたのだが、他のワークスチームが2スト500ccのレース専用マシンを使用するのに対し、ミックはプライベートチーム(ワークスに比べて資金力が低い)に所属して市販車の4スト750ccマシンを走らせていた。そのとき驚くべき走りをしていて、1コーナーの進入でジャックナイフさせながら激しくブレーキングしていた。日テレG+の解説でおなじみの宮城光さんもその姿を見ていて、「すごいな~あいつ」と感嘆していたという。ちなみにそのレースには3位表彰台に入っていて、Youtubeにも動画がある。
1988年にスーパーバイク世界選手権の第1回選手権が開催された。23歳のミックはヤマハのマシンに乗って出場し、日本のスポーツランドすごうで1勝、オーストラリアのオランパークで2勝を挙げている。
スーパーバイク世界選手権(4スト1000ccマシン)とMotoGP500ccクラス(2スト500ccクラス)は使用するマシンの特性が大きく異なるので、両方を優勝したことがあるライダーは数少ないのだが、ミックはそのうちの1人である。
MotoGP最大排気量クラスに参戦開始。1992年に大怪我をする
1989年からMotoGP最大排気量クラス(500ccクラス)に参戦を開始した。デビューはホンダのマシンで、引退するまでずっとホンダ党として過ごすことになった。
順調に腕前を上げ、1991年には3勝し、全15戦の中で14戦で表彰台に上がるというハイレベルな安定した成績を残し、ランキング2位になった。
1992年にはいよいよ本格化して、開幕から4連勝し、2位を2回続けたあとまた優勝し、ぶっちぎりでランキング首位を独走していた。
ところが第8戦のオランダGPで大転倒を喫してしまう。TTサーキット・アッセンというのは高速サーキットで、転倒すると体に大きなダメージを与えることが多い。右足に深刻なダメージが残り、一時は切断をも検討されたほどだったが、クリニカ・モビレのクラウディオ・コスタ医師の懸命な手術で切断は免れた。
この負傷で8週間ほどの欠場を余儀なくされた。シーズン最終盤の2戦で根性を出してレースに出てきて12位と6位に入りポイントを重ねたが、シーズン終盤に調子を上げたウェイン・レイニーに追い抜かれ、僅か4ポイント差でチャンピオンを逃してしまった。
1993年は序盤は苦しんだが中盤になって2位や優勝を記録するようになった。彼の右足はあまり細かい作業ができないようになってしまい、リアブレーキのペダルを上手く踏むことができなくなってしまった。リアブレーキをしっかり使う運転スタイルのミックにとって、そのことは大きな頭痛のタネであった。そこでブレーキメーカーのブレンボと相談し、左手の親指でリアブレーキを操作する装置を開発した。それが1993年の出来事とされる。
左手の親指(thumb サム)で操作するリアブレーキを、サム・ブレーキという。ミックこそが、サム・ブレーキの元祖である。サム・ブレーキについてはブレーキ(MotoGP)の記事にも記述がある。
こちらの動画は、ダニロ・ペトルッチがサム・ブレーキを解説している。こちらの動画では、アンドレア・ドヴィツィオーゾが実際にサム・ブレーキを使用しつつ走行する様子が映っている。
1994年から1998年まで最大排気量クラス5連覇を達成する
1994年(29歳)から1998年(33歳)まで5年連続の最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。その頃の動画はこちら。
日本語版Wikipediaを見ると、黄色い1がずらっと並んでいて、とてもきれいである。
1999年にヘレスサーキットで大転倒し、引退する
1999年の第3戦スペインGPはヘレスサーキットで行われたが、ミックは高速コーナーで大転倒を喫し、大怪我してしまった。34歳になったこともあり、その負傷の回復が思わしくなく、引退を決意することになった。
鈴鹿8耐を1991年に制する
かつての鈴鹿8耐は、MotoGP最大排気量クラスのワークスライダーがこぞって参戦する夢の祭典だった。
ミック・ドゥーハンも、同じオーストラリア人でホンダと関係が深いワイン・ガードナーとコンビを組んで参戦することが多かった。そのときのゼッケンは11で、ホンダワークスが好む番号である。ゼッケン1番にふさわしいエースライダーが2人いる、という意味。1989年から1991年まで3年連続でガードナーと出場し、1991年には優勝を飾っている。
大怪我をしたあとの1993年にも、ゼッケン11を付けてダリル・ビーティーと出場した。
1994年以降は出場しなくなった。鈴鹿8耐はとんでもなく疲れるので、29歳以降の彼にとってはキツかったのだろう。
引退後の生活
現在はオーストラリア東海岸のゴールドコーストに家族と住みながら、航空会社の経営をしている。レプソルホンダはお給料が良いので、現役時代の収入を元手に商売を始めたのだろう。その会社はPlatinum Business Aviation Centreといい、富裕層向けに小型ジェット機とヘリコプターのチャーターをしていて、業績も良好、しっかり成功しているとのこと。同社は2ヶ所に拠点があり、1つはミックの自宅近くのこの場所、もう1つは1,350km離れたメルボルン市内のこの場所にある。
こんな具合に検索すると、インタビュー記事がヒットする。自信満々な顔つきは現役時代と変わっていない。(記事1、記事2)
引退してから数年後にヘリコプターのライセンスも取得、バイクのように上手に操縦する。日本の雑誌「Racers」の編集者がミック・ドゥーハンの元を訪れたら、その編集者をヘリコプターに乗せていた。こちらがその時の記事。この記事によると、飛行機の免許も持っているが飛行機を飛ばすことはなく、もっぱらヘリコプター操縦を楽しんでいると語っている。
2006年3月21日に、11年間交際を続けたセリーナ・シーンズ(Selina Sines)と結婚した。挙式の場所はハミルトン島。セリーナさんのTwitterはこちら。
2006年8月8日にストリップクラブで事件を起こし、裁判所に出廷することになった。ミックは自分の服を脱ごうとして、警備員につまみ出された。階段を降りるときに警備員のAdrian Hydeに頭突きした。ストリップクラブを放り出されて、お巡りさんに逮捕された。弁護士は「ミックはそのときのことをよく憶えていない」「ミックの功績を考え、有罪判決をしないで頂きたい」と要求した。有罪判決は受けなかったが(no conviction)、2,500オーストラリアドルの罰金を科された。※この記事が資料
息子はジャック・ドゥーハン(Jack Doohan)という。2003年1月20日生まれで、四輪のレーサーとして活動している。四輪のレースはお金がかかるので、ミックの財布も薄くなってしまうかもしれない。
この記事でジャックがインタビューに答えている。「四輪のレースシーズン中はモナコに住んでいる。5歳の誕生日パーティーでバイクに乗ったけど、転んで足の骨を折った。それで、バイクが怖くなってしまった」と語っている。
この記事でミックがインタビューに答えている。「息子がサーキットに出るときはアドレナリンが出て興奮するんだけど、そのときはあまり息子に近づかないようにしている。もちろん息子のことはちょっと心配している。マルク・マルケスの親父のフリアさんと同じ思いをしているだろうね。レース中の息子は理性的で、今のところ大事故を起こしていない」とミックが語っている。
ビッグバンとスクリーマー
ミックは1992年からビッグバンエンジン(不等間隔爆発)の世界最先端エンジンをHRCから与えられていて、これが躍進の原動力になっていた。ところが1997年からのミックはスクリーマーエンジン(等間隔爆発)に自ら選んで戻していた。
スクリーマーエンジンの方が乗りづらいはずだったので不思議だったが、周囲のHRC所属ライダーは「ミックがスクリーマーを選んだぞ!真似しなきゃ!スクリーマーは乗りにくくて嫌なんだけど、我慢するしかない」と思ってスクリーマーに乗り換えていた。
ミックによると、1997年当時のスクリーマーはだいぶ性能が進化していて、ビッグバンとの差が少なくなっていたという。だから彼自身はビッグバンでもスクリーマーのどちらを選んでも勝てる自信があった。
それでも敢えてミックがスクリーマーを選んだわけは、自分がスクリーマーを選ぶことでHRCに所属するライバルライダーたちがスクリーマーを選ぶように誘導する目的があったのだという。
※この記事が資料
その他の雑記
現役時代はホンダに向かって「2位や3位になったときのボーナスは要らない。その代わり、1位になったときのボーナスを増やしてくれ」と言っていた。※この記事が資料
現役時代は勝利を重ね、日本人選手を情け容赦無く蹴散らしていた。
1997年は10連勝していて、11連勝をかけてインドネシアのセントゥールサーキットに乗り込んでいた。ラストラップまで首位を走ったが、最終コーナーで岡田忠之にかわされ2位に終わる。このときミックは相当に悔しかったのであろう、レース後の岡田に向かって○○○をこすりあげるような仕草をして、挑発していた。岡田は「小便小僧のようなことしてましたね」と冷静に対応していた。ただ、このレースを見直すとよく分かるが、岡田の完勝といった感じである。
ホンダの技術者は士気が高く、自分たちのアイディアを試したいと思う気風が強い。ところがミックはわりと保守的で、「バイクに余計なものを加えるな!」と厳しく注文していた。それでもホンダの技術者たちはミックの目を盗んでこっそりと部品を付けていたが、感覚の鋭いミックにバレてカンカンに怒られていたという。
1989年のデビューから1999年の現役引退に至るまで、一貫してチーフメカニックはジェレミー・バージェスであった。ジェレミーは後にヴァレンティーノ・ロッシを2000年から2013年まで担当している。
左コーナーを走るときと右コーナーを走るときは姿勢が大きく異なっていた。この記事でそのことが指摘されている。ミック自身は、「自分は左コーナーが多いダートトラック育ちなので、左コーナーはダートトラックの癖が大きく出たのだろう。右コーナーは舗装路面走行でよく見られる正統的な姿勢だと思う」と分析している。
関連動画
関連リンク
関連項目
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