孫休(235年-264年)とは、孫権の第6子で孫呉の3代目皇帝である。字は子烈、諡は景皇帝。
前半生
孫休の前半生は呑気と言えば呑気なものだった。何故なら、孫権の子供たちの中で唯一、帝位に興味を持たなかったからである。
13歳の時に中書郎の謝慈と郎中の盛沖に師事、教え方が良かったらしく最後まで学問にのめり込むようになる。
252年に皇族の一員として琅邪王に封ぜられると国境防衛の観点から、長江沿いの場所に赴任する。どうやら、それ以前に結婚したようであるのだが、相手は朱拠の娘である朱夫人、ここまでならふ~んであるがその朱夫人の母親は小虎こと孫魯育……つまり、自分の姪と結婚したのである。礼法上では問題ありありだったようであるが、人も羨むリア充死ねと罵りたくなるような仲むつまじい夫婦だったという。従姉妹婚は鴨の味という言葉もあるし、ある意味美味しい?
二宮の変で混乱した呉を残して孫権が世を去り、諸葛恪が権力を握ると重要拠点に皇族がいる事を嫌って丹楊郡に移住させられる。それだけなら良かったのだが、諸葛恪が殺され孫峻が権力を握ると、孫魯班の差し金によって孫魯育が殺されるという事件が発生。当然の事ながら魯育の娘を嫁にしていた孫休にも影響が及ぶため、孫休は泣く泣く妻を差し出した。素直過ぎたのが幸いしたのか、連座することなく朱夫人は孫休の元に戻れた。……まあ、よかったね。
丹楊郡の太守である李衡に色々と嫌がらせをされたために会稽郡に移住するものの、可愛い嫁と一緒に学問三昧のニートな生活を送ることとなる。ちなみに、濮陽興とはこの時に仲良しとなる。本人としてはこのまま何事もなく世を終えたかったところだろうが、世の中はそう甘くなかった。
龍に乗って天に昇ったが、後ろを振り返ればその龍には尾がない、という予知夢を見てから孫休の運命は変わっていくことなる。
皇帝へ
その頃、朝廷では孫峻から孫綝へと権力者が代わり、孫亮が孫綝を除こうとして逆に廃位させられるという事件が起きる。孫綝が皇帝になるわけもいかず、残った孫権の息子が孫休と孫奮だけで、孫奮も政争で自滅していた事から、何の野心もなければ問題もない孫休が擁立される事となり、孫休はさんざんもったいをつけた上で皇帝就任の要請を受諾した。
彼は皇帝の座につくと孫綝を徹底的に優遇した。
孫綝の一族を軍の要職につけたり候に封じたりするなどの大盤振る舞いで、孫綝一味が専横をしても不問に帰し、なおかつ厚遇する始末である。ところが孫休が孫綝からの捧げ物を断ったところ、それを恨みに思って酒席で張布を相手に「気に入らねえから廃立しようか」と口走り、張布は孫休にその事を告げ口した。これ以降、孫休は張布と共に丁奉と組んで孫綝排除に動くことになる。
258年12月8日、先祖を祀る祭で孫綝を1人の状態に置かせると群臣達が見ている前で孫綝を殺害。与党をことごとく殲滅すると張布と濮陽興を腹心として、孫休の親政がようやくスタートした。
政治
孫休のやった事は主にこんな事である。
- 五経博士を設置、官吏の子弟達に授業を受けさせ、成績優秀な者を高い位につけた。科挙の原型とされている。
- 丹陽郡の干拓工事のために、宛陵というところに灌漑用のダムを作った。これは回りの人々が反対する中、濮陽興が強行したものであるが果たして失敗したという。
- 廃帝孫亮が不安要素であったため、叛意有りという告発から孫亮を王から侯官侯へと落として、会稽郡の南の果てにある侯官に追放もとい赴任させた。孫亮はその途上で自殺してしまった(謀殺したという話もある)為、護送担当の役人を処刑した。
- 地方自治体の不正がひどく、中央でも実体が把握できなかった事から隠密同心を派遣して、内情を探らせた。
失敗した事案もあったが、孫休の治績は合格点が与えられるものであった。こうして、二宮の変で混乱していた呉も安定へと向かったのである。
………で、政治が安定した事をいいことに政治を張布と濮陽興に任せて、学問ニート生活に入ってしまうのだった。
学問というのは本来は有益なものだが、孫休の場合は趣味で学問に励んでいるので 目的と手段が入れ替わってしまっているようなものだった。
そして、とうとう奇妙キテレツな考えに走ってしまうのである。
DQNネームの元祖?
孫休さんは考えた。
- 人が名前をつけるのは互いの区別をつけるためである。区別をつけるのだから、名前は本来は被ってはいけないものである。
- 字は古来は1文字であったが最近は二文字が増えてきた。けれど、実体が名に追いついていない場合が多く、私は「盲人に伯明(よく見える)」という名をつけるようなものだと(現代風に解釈すると72に及川雫 ブスに麗美という名前をつけるようなもの)この風潮を嘲笑ってきた。そんな大層な名前を親がつけるのは間違っているのである。これらの事情を考慮して、自分の息子たちに名と字を定める。
- 長男:孫ワン(雨かんむりの下に「單」)字はキツ(「艹」の下に「囧」)
- 次男:孫コウ(「雷」の下に「大」)字はケン(「襾」の下に「升」)
- 三男:孫壾(モウ) 字は昷(キョ)
- 四男:孫ホウ(「寇」の「宀」を「亠」に、「元」を「先」に変える)字はヨウ(「禾午」の下に「火」)
……何故、漢字ではないのかというと、中国人名と機種依存文字問題は切っても切り離せない問題ではあるが、unicodeを導入すれば表示も表記も出来る。ところが孫休はunicodeにすら登録されていないような新字を捏造したのである。古代中山王国といい勝負だ。子供の名前に新しく捏造した漢字をつけても役所でハネられるのがオチ?なだけに、それが通用してしまうのが皇帝たる所以なのだろう。
何がDQNネームなのかは人それぞれであるが、少なくても「わからない」「書きにくい」といった要件を満たしているのは確かである。
いずれにしても、この発想には呆れるばかりであり、裴松之も「名前が被っているのが嫌なら名前なんてつけなければいいじゃないか」とのたまい「こんな事をしているから自分の死後に妻子が殺される羽目になるのだ」と身も蓋もないツッコミを入れている……って、ネタばれした。
真面目に考えると遙か後代に「忠を全うする」という名前を貰いながらも忠誠を尽くすはずだった王朝を簒奪した野郎がいるので張休の言うことも的外れという訳ではないのだが、呂蒙さんをディスってる。
人には身体能力や顔、胸の大きさといった先天的な特徴と、知力や知識、行動といった後天的な特徴があって、前者は変えることができず、それらと向き合っていかなければいけないのに対し、後者は努力次第でいくらでも変えることができる。孫休の主張はそれらの特徴をごっちゃにしているところが問題だろう。
子供の名付けに関しての資料が残っているのは珍しい事で、また名前をつける親の心境も今も昔も変わらない事を実感させてくれる。しかも、これ、卑弥呼の時代の話のことなのでDQNネームに関する世界最古の記録、といきたいところなのだが、裴松之が「春秋戦国時代の賢人が「良い名前をつければ良くなる」と言っていた」という事を論拠に反論している、逆に考えれば「悪い名前をつければ悪くなる」ということなので、更にその昔の時代からその手の問題が発生していたという事なのだろうか。
最後
孫休が家臣に政治を任せてニートやっている間に、状況は激変していた。
蜀滅亡のどさくさに紛れて領地を取ろうとするものの、羅憲に阻まれて失敗。三国鼎立のバランスが崩れて、反乱が勃発する264年、孫休は病没した。急に喋れなくなったとあるので、脳卒中くさいようである。享年30歳。
孫休は太子の孫ワンを帝位につけるよう遺言したが、蜀が潰れて危機的な状況にあるというのに幼帝では心許ないので、万彧のステマで甥の孫皓が帝位についた。これが誰も喜ばない結果になるとも知らず……
評価
陳寿は濮陽興と張布という親しいけれど使えない人物を任用して、真に有用な人物を起用しなかった事と孫亮を死なせたことを非難している。
客観的に見れば孫綝を誅殺できた事は評価できるし、行政手腕も一級で君主としてはそう悪くはないのだけれど、やっぱり途中から学問ニート生活に走ってしまったのは問題だろう。
………とはいってもニート皇帝なら、上には上がいたりするのである。嫌なことに。
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