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トミー・クルーズ(Tommy Cruz、本名:シリロ・クルーズ・ディラン(Cirilo Cruz Dilan))とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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トミー・クルーズ Tommy Cruz |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | プエルトリコ アローヨ |
生年月日 | 1951年2月15日 |
身長 体重 |
175cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1969年 |
引退 | 1985年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1951年2月15日生まれ。プエルトリコのアローヨ出身(現在の国籍はアメリカ合衆国)14人兄弟という大家族で育った。
いわゆる野球一家に生まれ、一家の中からトミーを含め3人がプロ野球選手となっている。兄のホセ・クルーズは後にヒューストン・アストロズの永久欠番に指定された名選手。弟のヘクター・クルーズもメジャーで一時期レギュラーとして活躍し、日本でも読売ジャイアンツで1年プレーしている。
高校を卒業後、1969年にセントルイス・カージナルスと契約。1973年にメジャーデビューし、3試合に出場(ただし打席には立っていない)。しかし、兄や弟と違いメジャーの舞台で活躍できず、その後移籍先のシカゴ・ホワイトソックスで4試合に出場したが安打を放つことはできなかった。以降はメジャー昇格することなく、MLBでは1安打も記録する事はできなかったが、1979年には3Aで首位打者を獲得していた。
1980年、開幕前に日本ハムファイターズに入団。調整期間が少なかったこともあり、前半戦は日本人投手特有の変化球攻めに苦しみ、振るわなかったが、7月末の南海ホークス戦で本塁打を放つと、この試合を含め5試合連続本塁打を記録するなど日本野球に適応。最終的には打率.309、26本塁打、84打点の好成績を記録。
1981年、打率.297、19本塁打、75打点、パ・リーグ最多の30二塁打を記録し、チームのパ・リーグ制覇に貢献。
1982年、打率.268、17本塁打、67打点と前年より成績を下げてしまったものの、後期優勝に貢献。プレーオフで敗退したが、殊勲打も多く、プレーオフ優秀選手賞に選ばれた。また、オールスターゲームにも初出場を果たしている。
1984年、開幕から好調を維持し、打率.348とブーマー・ウェルズに次ぐパ・リーグ2位のハイアベレージを記録した他、29本塁打、96打点と打撃三部門でキャリアハイの成績を残した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは、江川卓の8連続奪三振の8番目の打者となっている。
1985年、8月に球団新記録となる月間42安打を記録し、打率.321、19本塁打、70打点と好成績を残したが、オフに就任した高田繁監督が長打力のある打者を求めたことから構想外となり、退団。そのまま現役を引退した。
引退後は故郷のプエルトリコやアメリカのマイナーリーグで指導者として活動。
2016年に台湾代表の打撃コーチを務めた後、台湾プロ野球の中信兄弟、富邦ガーディアンズ、楽天モンキーズでコーチを務めた。
人物・エピソード
豪快なスイングで柏原純一、トニー・ソレイタらとともにクリーンナップの一角を担ったクラッチヒッター。ヘルメットが吹き飛ぶほど豪快なスイングだが三振は少なく、典型的なパワーヒッターというよりは二塁打の多い中距離打者であった。対左投手や満塁の場面でも強さを見せていた。
優勝争いの最中に体調を崩し高熱にうなされながらも強行出場したり、顔面にデッドボールを喰らい7針塗った翌日の試合に出場したりと、大沢啓二監督好みのガッツあふれる人物であった。一方で優勝争いやタイトル争いの目が無くなると、欠場したり帰国してしまったりとドライな面も持っていた。
通算成績
打撃成績
通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:2年 | 7 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 |
NPB:6年 | 712 | 2995 | 2780 | 345 | 863 | 120 | 466 | 9 | 2 | 25 | 178 | 10 | 220 | 78 | .310 | .351 |
獲得タイトル・表彰
関連項目
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