「上田憲定」(うえだ・のりさだ 1546 ~ 1597)とは、後北条氏に仕えた松山城主であり、空気の読めなかった北条氏政らと共に小田原城に籠もったものの、落城時に行方不明になったと言われる武将だが上田氏の家系図には没年が記されていると言う不思議な経歴の持ち主。
概要
父の跡を継いだ兄・上田長則が没すると跡を継いで上田氏の当主となって北条氏政や北条氏直に仕え、兄・上田長則の方針を引き継いで城下町の整備や市場の創設等の父・上田朝直が北条氏康から得た領国経営委任のお墨付きの元にした独自の領国経営に尽力した。
豊臣秀吉の小田原征伐がはじめると、上田憲定は居城の松山城を家臣・山田直安に任せて小田原城に入るという滅亡フラグを立ててしまう。
成田長親の統率力や甲斐姫の戦闘力に支えられた忍城以外の支城が、豊臣秀吉の大軍の前に次々と陥落していく中で、上田憲定の居城松山城も、前田利家や上杉景勝や真田昌幸ら名将達の手により陥落し、小田原城も後北条氏当主の北条氏直が降伏の道を選び、上田憲定は以降消息不明となったとされているのだが、上田氏の家系図には没年が記されており、しっかり松山城に戻ったとも考えられる。
なお松山城はその後の徳川家康の関東入りの際に、松平家広の居城となった為、その前に帰農したのではないかとも思われる。
※その他「上田憲定」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。 
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▼ニシンP作のiM@S架空戦記シリーズ「アイマス×Mobile信長の野望」関東編に登場
”在野で最も優秀な武将を連れてくる”特技「抜擢」持ちの上田朝直が連れてきた実の駄目息子。
もちろん不採用でした・・・「抜擢」なにそれおいしいの?
上田が自分の息子を連れてきたときは、携帯を持つ手が震えました。ええ。
↓
上田はもうどうでもいい
↓
上田は(ry
補足
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 27 | 政治 | 67 | 魅力 | 46 | 野望 | 59 | ||||||
| 武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 46 | 戦闘 | 32 | 智謀 | 40 | 政治 | 62 | 野望 | 59 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 66(C) | 智才 | 80(C) | 政才 | 124(A) | 魅力 | 56 | 野望 | 61 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 33 | 智謀 | 50 | 政治 | 64 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 29 | 戦闘 | 17 | 智謀 | 45 | 政治 | 63 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 14 | 智謀 | 19 | 政治 | 52 | 野望 | 23 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 22 | 知略 | 30 | 政治 | 58 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 22 | 知略 | 30 | 政治 | 58 | 教養 | 65 | ||||||
| 革新 | 統率 | 32 | 武勇 | 25 | 知略 | 34 | 政治 | 66 | ||||||
| 天道 | 統率 | 32 | 武勇 | 25 | 知略 | 34 | 政治 | 66 | ||||||
| 創造 | 統率 | 36 | 武勇 | 39 | 知略 | 40 | 政治 | 65 | ||||||
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関連項目
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