児玉利一単語

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児玉利一こだま りいち)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

2008年9月3日生まれ。大分県大分市出身。

大分商業学校に進学。チーム力として活躍し、1932年春の甲子園大会大分県勢として初めての出場に貢献。1935年には春の甲子園大会に出場してベスト8まで勝ち進んでいる。

卒業後、明治大学に進学。チームの4番打者兼リリーフ投手として岩本義行藤本英雄らとともに活躍し、東京六大学リーグ史上初の4連覇の立役者ひとりとなった。

その後戦局悪化に伴い、満州へと渡っている。

終戦後に帰し、全大分プレーしていた。

大学先輩であった地俊一に誘われ、1951年名古屋ドラゴンズに入団。入団時の年齢は32歳であった。

初年度の1951年、75試合に出場し、打率.277、3本塁打、36打点記録。また、投手としても4試合に登板している。

1952年サードレギュラーに定着し、西沢道夫杉山悟の後ろを打つ5番打者として活躍。打率.265、5本塁打、54打点記録

1953年打率.303、5本塁打、58打点記録し、オールスターゲームにも出場。

1954年からはコーチ兼任選手としてプレー。同年は4番打者を任され、打率.272、10本塁打、47打点記録し、セ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献。

1955年には、打率.315、8本塁打、45打点1956年には、打率.275、3本塁打、45打点記録し、2年連続でベストナインに選出され、オールスターゲームにも2年連続で出場した。

1957年大洋ホエールズへ移籍。

大洋でも4番打者を任され、1957年には打率.251、7本塁打、32打点記録

1958年107試合に出場して、打率.275、10本塁打、35打点記録したが、同年限りで現役を引退

引退後は解説者として活動。また、1973年には、明治大学の外部臨時コーチに就任したが、これは、プロ野球経験者のコーチ就任第1号であった。1976年には大洋で1シーズンコーチを務めた。

その後は読売ジャイアンツグッズ販売・プロテュースを担当する企業会長を務めた。

2008年9月3日前立腺のため死去。享年89歳。

人物・エピソード

重いバットを用いて、鋭いライナー性の打球を放ち、安定感のある成績を残した内野手

特にカーブを打つことを得意としていたことから『カーブ打ちの名人』とも称された。

1940年日本代表に選出されて出場した「東亜競技大会」のユニフォームと入場式で着用した帽子ネクタイを、野球殿堂博物館に寄贈している。

通算成績

打撃成績

通算:8年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 868 3274 2811 302 781 51 352 32 16 13 414 20 250 77 .278 .374

投手成績

通算:1年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 4 0 0 0 1 --- --- .000 5.2 2 1 6 2 3.00

獲得タイトル・表彰・記録

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