小田治久(1283~1352)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
小田氏とは治承・寿永の乱で活躍した八田知家の子孫で、傍流の宍戸氏とともに鎌倉時代は代々常陸守護に任じられていた名族である。彼もまた常陸守護・小田貞宗の子として生まれた。
1331年の元弘の乱の際は幕府軍として笠置山を包囲し、戦後には後醍醐天皇側近の万里小路藤房を預かることとなった。しかし1333年に後醍醐天皇が再度蜂起すると鎌倉幕府から離反、藤房を連れて上洛し宮内少輔に任じられるなど、他の常陸の国人である佐竹氏や大掾氏よりも優遇され、旧領も回復できた。
そして1335年、中先代の乱以降の足利尊氏の建武政権から離反の際は、関東武士の多くが尊氏に付き従ったのに対し、小田治久は後醍醐天皇の忠誠を捨てず、関東の南朝軍の主力として活躍する。1336年に楠木正家が常陸に下向し瓜連状に入城すると、大掾氏、那珂氏(江戸氏)らとともに彼をバックアップして北朝の室町幕府軍とともに戦い、佐竹貞義の息子佐竹貞冬を討ち取るも、高師冬の支援を受けた貞冬に敗北し、小田へ戻った。
1338年には北畠親房が常陸に入国、1341年には興良親王も加わり、幕府軍の常陸守護佐竹氏と対峙した。しかし那珂氏は瓜連城の戦いで没落、大掾氏は幕府方へ寝返るなど、情勢は厳しいものとなっており、頼みの白河祐樹親朝も再三にわたって援軍の催促をしたにもかかわらずついに動かなかったのである。その結果高師冬に領地を次々と制圧され、小田城は包囲。小田治久は親房と興良親王を逃がし、幕府に帰順した。
その後は北畠親房が頼った関城と、興良親王が頼った大宝城攻めに加わるなど幕府への忠誠をアピールしたが、没収された旧領は回復できないまま亡くなることとなり、彼の息子・小田孝朝の代には小山義政の乱に巻き込まれてより窮地に追い込まれていくのである。
関連項目
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