平広常 / 上総広常 / 上総介広常(?~1183)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
概要
桓武平氏のうち房総平氏の一流。代々上総権介を称した上総国の最有力在庁官人の家に生まれる。父は平常澄。
上総氏と清和源氏の関係は、1143年に相馬御厨に関する騒乱を源義朝に調停してもらったことから始まる。保元の乱、平治の乱では源義朝に従って活躍した。平治の乱で帰国してからは平家の天下の中雌伏の時を過ごし、上総どころか下総の一部にまで勢力が広がっていたのを、庶流である伊西常景、印東常茂らと争うようになった。加えてこの当時上総介に平家方の藤原忠清(伊藤忠清)が任じられており、同じく平家方の下総の藤原親政の権力伸長もあり、中央政界の勢力交代で割を食っていた在庁官人の一人となったのである。
そのため源頼朝の挙兵には同族である千葉常胤が早くから頼朝と通じていたこともあり、房総半島に逃亡した頼朝のもとへ駆けつけた。しかし、『吾妻鏡』によればかなり待たせた挙句大軍勢を引き連れていった結果、頼朝にかえって責められて、そのカリスマに感服したエピソードが残されている。
その後上洛を急ぐ源頼朝をたしなめて坂東の平定を優先させ、常陸の佐竹氏攻撃では軍功をあげている。しかしあくまでも坂東武士としての独立を果たそうとする彼は、その勢力の大きさからも頼朝から危険視され、ついに1183年に梶原景時との双六中に暗殺されることとなった。しかし頼朝は広常が生前上総国一宮に奉納した鎧に頼朝の祈願成就、東国泰平の願文が結び付けられていたことを理由に、彼の一族には手を出さずに事件は終わったのである。
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