箸墓古墳とは、奈良県桜井市纒向遺跡にある古墳。箸中山古墳とも。形状は前方後円墳。
概要
奈良盆地の三輪山の麓から広がるオオヤマト古墳集団の一つ「纒向古墳群」に属する古墳で、墳長278m、高さ30m(10階建てマンション相当)と日本の古墳の中でも11位に相当する巨大さである。
築造年は、出土物の年代や炭素測定から3世紀中頃~後半という説が有力。4世紀中頃とも言われる事もあるが、前方部の形状から推察すると古い段階の前方後円墳であることは間違いないと見られる。
被葬者はわかっていないが、宮内庁は第7代孝霊天皇・皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももひめのみこと、以下・百襲姫)」とする。
築造年代が卑弥呼の死亡時期と重なり得る事と、墳丘の特異性もあって「邪馬台国畿内説」の支持者を中心に卑弥呼の墓という主張がなされているが、それを裏付ける材料も明確に否定できる材料も現状は発見されてはいない。
ヤマト王権・最初の王の墓?
前記の通り、宮内庁は第7代孝霊天皇・皇女である百襲姫を被葬者としている。が、父・孝霊天皇が「欠史八代」として存在が疑われていることもあり、実際の被葬者は異なるであろうというのが一般的な見解である。現状、被葬者はわかっていない。
ただ全国に点在する前方後円墳は、この箸墓古墳と設計・埋葬施設・副葬品に明確に共通項を持つ。箸墓古墳はこの様式化された前方後円墳の最古級の古墳にあたる。
様式が異なる墳丘が多数見つかる状態というのは、葬儀の決まりが違う≒国が違うと見做せるので、小国が乱立していた状態と推察ができるが、統一した様式での墳丘が全国で見つかるというのは、同一勢力の影響力がそこまで及んでいた事に他ならない。
またその統一化された様式の中でも、近畿地方にある前方後円墳は箸墓古墳を含めて規模が大きく出現が早い。すなわちこの勢力は、近畿地方を本拠地に全国に勢力を伸ばしたと推定できる。
よってこの古墳の存在が「箸墓古墳を作った勢力(=ヤマト王権)が、近畿地方を中心に全国的に勢力を拡大していった」事の証明に他ならず、「ヤマト王権・最初の王の墓」とも言われる事がある。少なくとも、その圧倒的な規模の大きさから言っても強大な権力を持っていたことは容易に想像できる。
上記の理由から、当古墳の出現をもって弥生時代から古墳時代へ転換したというのが近年の通説である。
箸墓伝説
大物主神と結婚した百襲姫は、夜にしか現れない大物主神を昼にも見たいと願った。
すると大物主神は翌朝に蛇の姿(本来の姿)で現れた。これに百襲姫は驚き叫んだため大物主神はそれを恥じて三輪山に帰ってしまった。
後悔した百襲姫が泣き崩れた拍子に腰を落とすと、そこに落ちていた箸が陰部に突き刺さって死んでしまった。(自分で突き刺したとも。)
百襲姫は「大市」に葬られたが、人々はそれを「箸墓」と呼んだ。
墓は昼は人が、夜は神が作り、人々はバケツリレー方式で石を運んだ。
いくつか差異があるケースはあるが、「陰部に箸が刺さって死ぬ」所は必ず一致する。
箸は7世紀に入ってから使われているので、上記の伝承とは明確にズレがある。
このため、古墳の造営を手掛けたのが古代豪族で葬儀を取り仕切っていた土師氏(はじし)であり、土師氏が作った墓から箸墓になったという説もある。箸墓古墳の後円部からは吉備系とみられる出土物が多く見られるため、吉備に勢力を持っていた土師氏が関わっていても不思議ではない。
卑弥呼の墓
「邪馬台国がどこにあったか?」は江戸時代から続く古代日本の謎としてよく取り上げられる。通常「九州説」と「畿内説」の2つが取り上げられることが多い。なおこれは新井白石が悪い。
「畿内説」においては通常その規模から纒向遺跡を都とするため、纒向遺跡に属する古墳群の中で最大の大きさの箸墓古墳に卑弥呼が被葬されていると考える。この説を取る場合、「ヤマト王権は邪馬台国と同一・連続した統治体制」であった可能性が高くなる。
ただし魏志倭人伝に記されている卑弥呼の墓の記述とは一致しない点が多いことや、卑弥呼の没年とおおよその築造年代が合わないことなどから否定意見も多く一致した意見が出ていない。
箸墓古墳は宮内庁の管理のため発掘・調査を基本的に認めていないものの、纒向遺跡の発掘調査が進むことでヒントが得られる可能性は高い。しかし、あまりにも広大な敷地を持つ纒向遺跡の発掘には非常に時間がかかるため、結論が出るのはまだ当分先と思われる。
また仮に遺跡を発掘できたとしても他の陵同様に盗掘されている可能性が高く、決定的な物証(魏からの金印)などは出るかどうかは定かではない(関連静画のは完全想像上のもの)。
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関連動画
関連静画(想像)
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