弥生時代とは、日本の時代区分。弥生土器の出現(紀元前10世紀~紀元前3世紀ごろ)から古墳が全国に広まる以前(紀元後3世紀ごろ)までを指す。縄文時代ともども近年の研究の進展が甚だしく、論争も絶えないため、あくまでも現在の高校教科書に乗っ取った記述にとどめる……というか邪馬台国関係でこの辺からトンデモ史家や自称歴史家の物書きたちがのさばりだすので…
概要
おおよそ縄文土器から弥生土器に変化したあたりからを弥生時代と呼ぶ。かつては稲作の開始が強調されてきたが、縄文時代にすでに農耕の萌芽が見られたことが明らかになってきたことから、弥生早期にあたる移行期が設定された。
なお弥生土器の出現もかつては紀元前3世紀ごろとされてきたが、炭素年代による調査で北九州では紀元前10世紀ごろに弥生土器を用いていたことが明らかとなり、水稲耕作を縄文人が少しづつ選び取っていって広まっていった新たな弥生時代像が明らかになっていった。
そして、この結果弥生時代の生活はどのように特徴づけられるかをまとめよう。
- 北九州に水田稲作技術が伝来し、まず西日本に、後に東日本に水稲稲作が普及し本格的農耕社会が形成
- 金属器、機織りといった大陸文化が伝来し、弥生土器が登場
- 木製農具の製作とそれに伴う磨製石器から鉄製工具への移行
- 余剰生産物をめぐる争いから、環濠集落や高地性集落の発達
- 青銅製祭器による宗教儀式の開始
- 鉄製農具の普及によって、湿田農耕中心から乾田開発が可能に
- 後期には小国家が誕生し、墳丘墓が出現
- 小国家は漢、魏といった中華王朝との朝貢外交を行い、銅鏡などを入手
弥生時代の主な遺跡
- 板付遺跡(福岡県)・菜畑遺跡(佐賀県):前期
- 縄文晩期後半の水田跡と弥生時代の集落跡・土器がともに見つかっている
- 砂沢遺跡(青森県):前期
- 北九州の遠賀川式土器と同年代とされる土器を伴う水田跡が見つかる
- 唐古・鍵遺跡(奈良県):前~後期
- 1930年代の調査で弥生時代の稲作が実証された
- 吉野ケ里遺跡(佐賀県):前~後期
- 長期間の遺構が出土し、特に弥生時代の集落跡の変遷がよく分かる
- 荒神谷遺跡(島根県):中期
- 青銅器が大量に出土した
- 池上曽根遺跡(大阪府):中期
- 大規模環濠集落の出土
- 垂柳遺跡(青森県):中期
- 弥生時代中期に東北で稲作が始まっていたことを証明
- 弥生二丁目遺跡(東京都):後期
- 1884年に向ヶ丘貝塚(現在位置不明)から見つかった最初の弥生土器と似た土器が見つかった
- 登呂遺跡(静岡県):後期
- 戦後調査が行われ、弥生水田研究の帰順となった。
中国の正史への登場と邪馬台国
弥生時代に日本ではまだ同時代文書は存在しないものの、次第に『漢書』、『後漢書』、『三国志』…つまり「魏志倭人伝」、『晋書』といった中華王朝の正史に、倭国、つまり現在の日本の様子が描かれるようになってきた。
実はこれらの正史は必ずしも時代順に作成されたわけではなく、厳密にいえば同時代史料と言えないものも混じっているものの、当時の日本の状況を知る手掛かりとして前近代から重要視されてきたのである。
それをおおよそ時系列順にまとめると以下の通りになる。
前1世紀ころ漢の楽浪郡と交渉をすでに始めていた倭国は、57年に奴国の王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を得た。また107年には帥升が安帝に生口を献上したことが記されている。
この後倭国は大乱になったとされ、次に現れるのは239年の邪馬台国の卑弥呼からの使者である。卑弥呼は魏に使者を送り魏から倭王として認められたようだ。
そして卑弥呼の死後、壱与(台与)が即位したことも魏志倭人伝に記されており、『晋書』には266年に朝貢を行ったと記されている。
この邪馬台国はどこにあったのか、という問題は、邪馬台国がのちの天皇家と関わるものか、それとも別の王権かといった問題ともかかわり、畿内説と九州説に分かれて、いまだなお争っている。箸墓古墳の発掘による、奈良県纏向遺跡の調査も、この論争を決着させたとはいえず、というかもはや、イデオロギー的な対立にもなっているレベルのもののため、ここでは深く触れずにおきたい(出版社がキワモノ研究家の信者になってるとかいろいろあるし…)。
続縄文文化と貝塚文化
縄文時代まではおおよそ共通の歴史をたどってきた北海道以北と、沖縄など南西諸島では、弥生時代からはおおよそ別の文化圏となっていった。
まず北海道は寒冷な気候のため農耕社会が形成されず、鉄器を使用した狩猟・採取・漁労を中心とした続縄文文化が7世紀ごろまで継続し、以後擦文文化、オホーツク文化へと変わっていった。
また沖縄など南西諸島では弥生土器の伝播などは認められるも、漁労・貝類の採取中心の貝塚文化圏となった
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