足利基氏(1340~1367)とは、南北朝時代に活躍した武将である。
概要
足利尊氏の四男で、嫡男・足利義詮とおなじく正室・赤橋登子の子。鎌倉公方の初代である。
足利基氏が生まれた1340年とは、前後の争乱と比べると足利尊氏にとっては平和そのものだったころといえる。そしてそこから10年にわたって基氏に関しては特にいえることは何もない。彼が歴史の表舞台に出るのは、観応の擾乱の際、和睦の条件として足利直義の要求で足利義詮が鎌倉から京に上洛し、その代わりとして鎌倉に送られた時である。
まだ元服も済ませていなかった基氏は、尊氏派の高師冬と直義派の上杉憲顕の二人に補佐され、当然両者の対立を抑える力はなかった。結局師冬が殺害され、関東が直義派に一本化されるのも、ただ巻き込まれただけに過ぎなかったのだ。しかし観応の擾乱自体は1352年に尊氏派の勝利に終わり、彼の元服を見終わった足利直義が亡くなると、基氏も逃亡先の安房から鎌倉に戻ったのであった。
そして起こったのが新田義興、新田義宗兄弟と、旧直義派の上杉憲顕らの挙兵であり、父・足利尊氏は幼い足利基氏の代わりに武蔵野合戦で新田軍を撃破したものの、完全にとどめを与えることはできなかった。畠山国清を関東執事に任じ、尊氏が京に戻った後も、基氏は6年もの間を入間に在陣したのであった。
また、尊氏はある権限を基氏に与えていった。それは鎌倉公方が分国内の土地を自由に与えられるというものである。これが後々非常にややこしいことになるのだが、そのことは基氏の代には顕在化しなかった。
1358年、畠山国清の策謀で多摩川・矢口の渡しで新田義興の謀殺に成功した足利基氏はようやく鎌倉に戻った。そして1359年に足利義詮の助けとして国清を畿内に送り出したのだが、国清は幕内の政争に明け暮れた挙句、何の成果も出さずに1360年に戻ってきたのだ。このことは関東武士の不満を呼び、ついに国清を更迭し、上杉憲顕ら旧直義派の復権を行ったのである。こうして以後連綿と続いていく上杉氏による関東管領の継承が始まるのである。
足利義詮は父親と似たように中央で兄弟仲良く政権を運営する構想があったようだが、足利基氏は忙しくて関東から出てくることはできなかった。かくして足利基氏はあっけなく亡くなってしまい、足利義詮は佐々木道誉を関東に派遣する。ところが、その足利義詮も後を追うようにして同じ年にあっけなく死に、足利義詮の構想はともかく、佐々木道誉は関東から戻ってきて、結局鎌倉公方家という足利氏の一門が代々関東を引き継いでいく形となった。
関連商品
関連項目
- 3
- 0pt