イスファハーンは世界の半分とは、サファヴィー朝の隆盛を示した言葉である。
現在のイラン中央部に位置する都市であり、サファヴィー朝時代には都として繁栄を極めたイスファハーンを讃えた言葉。世界史を選択していたり、受験科目に使っていればおそらく一度は耳にした事はあると思われる高校世界史用語の一つでもある。
ペルシャ語で書くと「Esfahān nesf-e jahān ast」となり、助詞だけつけると、エスファハーンはネスフ(nesf≒半分)ェ、ジャハーン(jahān≒世界)という風に置き換える事ができる。早い話が北海道はでっかいどう的な韻を踏んだダジャレである。ちなみにペルシャ語では短母音がaとeとoしか存在しないため、イスファハーンではなくエスファハーンがよりペルシャ語に近い呼び方・書き方となる[1]
出典は定かではないが、アッバース1世の時代にこの大事業を完成させた王を讃えて住民たちの誰かが言い始めて、ことわざとして定着したという話もある。また、1932年にイランの高名な小説家であるサーデク・ヘダーヤトが同名の紀行文を発刊している。
だが、もちろんただのダジャレというわけではなく、この都市の繁栄は広く知れ渡っており、ペルシャの中ではもちろん、当時の世界でも20番以内には入る20万(市域も含めると50万人)人近い人口を持つ大都市となっている。
時は16世紀末頃、日本では安土桃山文化が花開く中、遠く離れたペルシャでも大きな繁栄を迎えた都市があった。その名はイスファハーン、現在のイラン中央部に位置する都市である。
この都市の起源は紀元前6世紀のアケメネス朝の時代にまで遡り、交易の要衝として、また手工芸品の産地として栄えていた。イスラムの時代に入ってからも大モスク(金曜モスク)が建立されたり、ブワイフ朝の首都になるなど大きな都市としてその名は知られていた。
しかし、11世紀末頃からイスラム教内の他宗派同士の争いが酷くなり、度々略奪の憂き目にあっており、13世紀に入るとモンゴル軍の征服を受け、イル・ハン朝の支配下に入った時に小康を得るも、その支配が崩壊すると14、15世紀にはティムールとウズベク族長のシャイバニにより大規模な略奪を受け、徐々に衰退していった。
この転機になったのが続いてイランに成立した王朝、サファヴィー朝であった。1598年にアッバース1世によってこの都市がカズウィーンより遷都されると、王都にふさわしい街に作り変えるべく大規模な造営が行われた。アリ・カプ宮殿をはじめとする宮廷関連の施設はもちろんのこと、王のモスク(現在ではイマームのモスクと呼ばれる)や、商業地や閲兵、式典などを行う為の王の広場を新たに市街の南西に設け、整備を行った。
処刑場や売春を行う色街という側面もあったが、交易の中心地としてこの都市の名前は大きく知れ渡った。バザール(市場)には洋の東西から豊富な物品が取り揃えられ、これを見た商人や旅行家からはその繁栄をたたえて「イスファハーンは世界の半分」と賛辞を惜しまなかったのである。
サファヴィー朝は18世紀に入ると宮廷内の内紛が影響して衰退し、1722年にはシーア派への転向を強要したのに反発したアフガン人たちがイスファハーンを破壊。1736年にナーディル・ハーンがシャーを廃位して自らの王朝を建てたことでサファヴィー朝が滅亡すると、アッバース1世が作り上げた新市街地は衰退して、耕作地に置き換わっていった。
18世紀末にガージャール朝がペルシャを支配すると正式に首都機能はテヘランへ、経済機能はよりロシアやオスマンの国境に近いタブリーズに移転。イスファハーンは一地方都市にその地位を落とした。しかし、1925年にレザー・シャー(レザー・ハーン)によるパフラヴィー朝が成立すると街全体に近代化が施されるようになり、近代産業が樹立。またサファヴィー朝時代の史跡を生かして観光都市として再出発し、再びペルシャ(イラン)有数の大都市として存在感を強めることになった。
1979年には王のモスク(イマームのモスク)と、王の広場が世界遺産に登録され、観光都市として地歩を固めている。
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最終更新:2025/03/23(日) 14:00
最終更新:2025/03/23(日) 13:00
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