ジェームス・ハント(James Simon Wallis Hunt, 1947年8月29日 - 1993年6月15日)とは、イギリス出身の元レーシングドライバーのことである。
父からは医者になることを期待されていたもののモータースポーツへの興味を抑えきれず、18歳のときにレーサーとしてのキャリアを歩み始める。
1968年、フォーミュラ・フォードに参戦、1969年からはF3の舞台で活動を始める。当時は他を圧倒する速さを見せることはあるもののクラッシュなどでリタイアすることも多く「ハント・ザ・シャント(壊し屋ハント)」と呼ばれていた。
この頃の走りがレース好きの貴族であるヘスケス卿のお眼鏡に適い、彼の助力を受けF2やロスマンズ50000、非公式F1選手権などで活躍。
1973年途中からヘスケス卿のチーム「ヘスケス・レーシング」がプライベーターとして正式にF1選手権に参戦し、ハントはそのドライバーとしてF1参戦することになった。
デビュー戦は、第6戦モナコGPで9位完走、第8戦フランスGPで6位入賞で初のポイント獲得すると、第10戦オランダGPで3位に入り初の表彰台獲得、最終戦アメリカGPで2位とワークス勢と遜色ない走りを見せ存在感を示す。
1974年、8度のリタイアと完走率こそ低かったものの、3度の3位をはじめ4回の入賞を重ねた。
1975年、開幕戦アルゼンチンGPで2位表彰台を獲得すると、第8戦オランダGPでニキ・ラウダを抑え見事初優勝を達成。その後も入賞を重ねていった。しかしチームは資金難に陥り、ハントはエマーソン・フィッティパルディの後任を探していたマクラーレンへ移籍することとなった。
1976年、第4戦スペインGPでひと悶着あったもの移籍後初優勝、第9戦イギリスGPでは失格になるなど不運こそあったものの、ニキ・ラウダと激しいチャンピオン争いを繰り広げる。ラウダがドイツGPの大事故で離脱中にポイントを稼ぎ、6勝をあげたハントと離脱期間がありながら5勝をあげたラウダの王者争いはわずか3ポイント差で最終戦日本GPまでもつれ込んだ。迎えた最終戦、舞台の富士スピードウェイは大雨と霧でコースの一部が川のようになるなど直前まで中止か決行か議論された。結局決勝レース開催が決まりレースはスタート、ラウダは2周走ったところでレースを棄権、ハントはピットミスはあったものの気迫の走りで3位入賞。これにより1位のラウダを逆転し初のワールドチャンピオンに輝いた。
1977年、第10戦イギリスGP、第15戦アメリカGP、最終戦日本GPで3勝をあげるもリタイアの多さが響き、ランキング5位と伸び悩む。
1978年、マクラーレンはマシンの開発競争に乗り遅れ戦闘力が低下、3度の入賞にとどまり消化不良のシーズンとなってしまった。移籍を決意したハントはウォルター・ウルフ・レーシングへ移籍を決意する。
1979年、加入したウルフのマシンはスピートも信頼性もなくリタイアを重ねる。ハントのフラストレーションは頂点に達し、第7戦のモナコGPリタイアの後、「マシンの性能に大きく左右され、ドライバーの腕だけではいかんともし難くなり興味を失った」と突如引退を発表。F1の表舞台から去った。
その後はイギリスのBBCのF1中継の解説を中心にレース解説者として活動。
しかし1993年6月15日、自室で心臓発作のためこの世を去った、45歳の若さであった。死の直前まで友人と冗談を飛ばしあっていた。
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
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