レコンキスタ 単語

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レコンキスタ

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レコンキスタ(Reconquista)とは以下のことを表す。

  1. スペイン語で「再征」を表す。通常、イベリア半島において8世紀から15世紀にかけて行われたキリスト教徒による再征運動のことをす。詳細はウィキペディアexitを参照されたし。
  2. コットンソフトから発売されたエロゲ。もしくはそのOPテーマタイトルレコンキスタ(ゲーム)参照。
  3. ガンダム Gのレコンギスタ表記揺れ

概要

711年にウマイヤアラブ帝国によって、西ゴート王が滅亡し、イベリア半島く間にイスラームの手に落ちた。然し、辛うじて北部の山岳地帯では、全に支配が及んで居らず、718年にアストゥリア地方で西ゴート王貴族を名乗るペラヨがアストゥリアス王の建を宣言。コバドンガの戦いでペラヨはイスラームに対するキリスト教初の勝利を得る。レコンキスタはここから始まるとされる。同時期にカンブリアで族が起してアストゥリアス王に合流し、キリスト教は南下を開始する。また、732年には、カールマルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで勝利して、イスラームをピレネー以南に押しとどめる事に成功した。

一方のウマイヤでは、広大な版図を持ったが故に地方で有者が起し、内が不安定になっていた。750年にはアッバースり、その虐殺から逃れたウマイヤ王子アブド・アッラフマーン1世として即位し、後ウマイヤアルアンダルスる。

フランク王国は、カール大帝やその子、ルートヴィヒの時代に、後ウマイヤに対し攻撃して、ジローナやパンプローナ、バルセロナまで進出したものの、後ウマイヤの反撃に遭い、また、内の混乱もあってそこで止まってしまった。九世紀初頭頃から、これらの地域は、後ウマイヤを撃退する一方で、フランク王国に対しても叛乱を起こし、次第に独立していく。こうしてできたのが、パンプローナ王(後のナバラ)やアラゴン伯領、バルセロナ伯領(カタルーニャ)である。

一方、アストゥリアス王は後ウマイヤ混乱に乗じてドゥエ以北を占領し、レオン遷都して、レオンレオンアストゥリアス王)と名を変えていた。ここから、更に、カスティーリャ伯領(後のカスティーリャ王)が分離する。

もっとも十世紀までは、イベリア半島キリスト教と後ウマイヤには大きな開きがあった。シマンカスの戦いのように、一時的に勝利することはあったが、後ウマイヤが兵を集中させると、一気に不利となり、後ウマイヤに貢納と臣従をせざるをかった。

この状況が変化するのは、十一世紀に入ってからである。後ウマイヤは、後継者問題から内乱に突入し、それぞれの勢が自身の勢を有利とするために、キリスト教を利用するようになったのである。反乱が起こる度に、反乱軍キリスト教に援助をめ、内乱は化、1031年にカリフ位されるに及んで、アンダルスタイファと呼ばれる小国が並び立つタイファ時代、いわば戦国時代となったのである。

この間、イスラームの圧がなくなったため、イベリア北部にあったキリスト教が再編を起こして、ナバーラ王サンチョ3世の下で統一される。これは後に、分割相続によって、ナバーラ、カスティーリャ、ソルブラベ伯領、アラゴン分割された。カスティーリャを受け継いだフェルナンド1世は、レオンを併合して、カスティーリャ・レオンを成立させる。これも分割され、カスティーリャ、レオンガリシアる。

カスティーリャ、アラゴンはこの分割の際王号を称することとなった。カスティーリャ王南部イスラーム諸勢を攻めて貢納をさせた。

十世紀後半になるとアフリカったムラービトアンダルスに介入をしてくる。ムラービトタイファを併合して、カスティーリャを圧倒し、レコンキスタは再び停滞することとなる。

ラゴンは、ナバーラ王相続してを増すと、サラゴサを奪取。ふたたび王分割するが、今度は、バルセロナ伯領との合同をした。

レオンからは、ポルトカレー伯が独立し、ポルトガルを名乗る。

レコンキスタは、再びイスラーム内部分裂で進む。ベルベル人やアフリカ人を中心とするムラービトが、アラブ系のアンダルスを統治しきれなかったためである。モロッコでもムワッヒドり、ムラービトは崩壊した。この際、やはりタイファが各地で自立を始めたが、北部のキリスト教の存在によって、すぐにムワッヒド護下に入り、タイファ時代の再来とは成らなかった。イベリア半島では暫く、キリスト教イスラムは互となった。

この均衡を打ち破ったのは、教皇インノケンティウス3世であった。第四回十字軍と併せてイベリア半島でも号を発し、その結果、イベリア半島の形勢はキリスト教一気に傾いていった。ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒドを打ち破り、以後ムワッヒドは衰退していく。ムラービトと同じく、イベリア半島での内乱とモロッコでの反乱が重なり、これを見てキリスト教は南下を開始する。1235年には、レオンカスティーリャ王相続合同したことで、カスティーリャ王は増大し、これに拍を掛けることとなる。

1230年から1246年のキリスト教の攻勢によって、グラナダ王国を除いてイベリア半島キリスト教下となる。そのナスル朝グラナダ王国カスティーリャに臣従を誓っており、キリスト教に敵対する勢は終にくなったと言える。

一方、ナスル朝は巧妙な立ち回りで生き延びた。土がそもそも険の地にあって、攻めるには難しかった。また、キリスト教も、アラゴン地中海への進出、ポルトガル海洋、ナバーラ王はアラゴンカスティーリャ間の生き残り、カスティーリャは増した土の統治と内紛の対処、更にモロッコマリーンとの争いがあった。更にアラゴンカスティーリャ王が潜在的に敵対していたこともあって、各ともナスル朝に対峙する情熱や余かった。

然し、15世紀に入ると、ナスル朝を生きながらえさせた条件が徐々に失われ始める。カスティーリャは徐々に内を安定させ、マリーンを撃退、ついでアラゴンとは政治的な接近を始めた。更に対モロッコ地中海沿に有イスラームが居なくなったことは、これらとの同盟を通じての安全保障が出来なくなったことを意味した。1410年にはセウタポルトガルに、1462年にはジブラルタルカスティーリャに占領され、ジブラルタル海峡キリスト教徒の手に落ちた。これでナスル朝は貿易のみならず、ムーア人の傭兵依存していた兵の供給も遮断された。

こうした中でもナスル朝内部では内紛が起った。合同を果たしたアラゴンカスティーリャ両王スペイン王国)のカトリック両王はナスル朝に対する攻撃を開始し、1492年に、グラナダが陥落してレコンキスタは終了した。

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