レコンキスタ(Reconquista)とは以下のことを表す。
711年にウマイヤ朝アラブ帝国によって、西ゴート王国が滅亡し、イベリア半島は瞬く間にイスラーム勢力の手に落ちた。然し、辛うじて北部の山岳地帯では、完全に支配が及んで居らず、718年にアストゥリアス地方で西ゴート王国の貴族を名乗るペラヨがアストゥリアス王国の建国を宣言。コバドンガの戦いでペラヨはイスラーム勢力に対するキリスト教勢力初の勝利を得る。レコンキスタはここから始まるとされる。同時期にカンタブリアで豪族が蜂起してアストゥリアス王国に合流し、キリスト教勢力は南下を開始する。また、732年には、カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで勝利して、イスラーム勢力をピレネー以南に押しとどめる事に成功した。
一方のウマイヤ朝では、広大な版図を持ったが故に地方で有力者が蜂起し、国内が不安定になっていた。750年にはアッバース朝が興り、その虐殺から逃れたウマイヤ朝の王子がアブド・アッラフマーン1世として即位し、後ウマイヤ朝がアル・アンダルスに興る。
フランク王国は、カール大帝やその子、ルートヴィヒの時代に、後ウマイヤ朝に対し攻撃して、ジローナやパンプローナ、バルセロナまで進出したものの、後ウマイヤ朝の反撃に遭い、また、国内の混乱もあってそこで止まってしまった。九世紀初頭頃から、これらの地域は、後ウマイヤ朝を撃退する一方で、フランク王国に対しても叛乱を起こし、次第に独立していく。こうしてできたのが、パンプローナ王国(後のナバラ王国)やアラゴン伯領、バルセロナ伯領(カタルーニャ)である。
一方、アストゥリアス王国は後ウマイヤ朝の混乱に乗じてドゥエロ川以北を占領し、レオンへ遷都して、レオン王国(レオン・アストゥリアス王国)と名を変えていた。ここから、更に、カスティーリャ伯領(後のカスティーリャ王国)が分離する。
もっとも十世紀までは、イベリア半島のキリスト教勢力と後ウマイヤ朝の国力には大きな開きがあった。シマンカスの戦いのように、一時的に勝利することはあったが、後ウマイヤ朝が兵力を集中させると、一気に不利となり、後ウマイヤ朝に貢納と臣従をせざるを無かった。
この状況が変化するのは、十一世紀に入ってからである。後ウマイヤ朝は、後継者問題から内乱に突入し、それぞれの勢力が自身の勢力を有利とするために、キリスト教勢力を利用するようになったのである。反乱が起こる度に、反乱軍はキリスト教勢力に援助を求め、内乱は激化、1031年にカリフが廃位されるに及んで、アンダルスはタイファと呼ばれる小国が並び立つタイファ時代、いわば戦国時代となったのである。
この間、イスラーム勢力の圧力がなくなったため、イベリア北部にあったキリスト教国が再編を起こして、ナバーラ王国サンチョ3世の下で統一される。これは後に、分割相続によって、ナバーラ、カスティーリャ、ソルブラベ伯領、アラゴンに分割された。カスティーリャを受け継いだフェルナンド1世は、レオン王国を併合して、カスティーリャ・レオン王国を成立させる。これも分割され、カスティーリャ、レオン、ガリシアが興る。
カスティーリャ、アラゴンはこの分割の際王号を称することとなった。カスティーリャ王国は南部のイスラーム諸勢力を攻めて貢納をさせた。
十世紀後半になるとアフリカで興ったムラービト朝がアンダルスに介入をしてくる。ムラービト朝はタイファを併合して、カスティーリャを圧倒し、レコンキスタは再び停滞することとなる。
アラゴン王国は、ナバーラ王国を相続して国力を増すと、サラゴサを奪取。ふたたび王国は分割するが、今度は、バルセロナ伯領との合同をした。
レオン王国からは、ポルトゥカレー伯が独立し、ポルトガル王国を名乗る。
レコンキスタは、再びイスラーム勢力内部分裂で進む。ベルベル人やアフリカ人を中心とするムラービト朝が、アラブ系のアンダルスを統治しきれなかったためである。モロッコでもムワッヒド朝が興り、ムラービト朝は崩壊した。この際、やはりタイファが各地で自立を始めたが、北部のキリスト教国の存在によって、すぐにムワッヒド朝の庇護下に入り、タイファ時代の再来とは成らなかった。イベリア半島では暫く、キリスト教勢力とイスラム勢力は互角となった。
この均衡を打ち破ったのは、教皇インノケンティウス3世であった。第四回十字軍と併せてイベリア半島でも号令を発し、その結果、イベリア半島の形勢はキリスト教勢力に一気に傾いていった。ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝を打ち破り、以後ムワッヒド朝は衰退していく。ムラービト朝と同じく、イベリア半島での内乱とモロッコでの反乱が重なり、これを見てキリスト教勢力は南下を開始する。1235年には、レオン王国がカスティーリャ王国に相続で合同したことで、カスティーリャ王国の国力は増大し、これに拍車を掛けることとなる。
1230年から1246年のキリスト教勢力の攻勢によって、グラナダ王国を除いてイベリア半島はキリスト教勢力下となる。そのナスル朝グラナダ王国もカスティーリャに臣従を誓っており、キリスト教勢力に敵対する勢力は終に無くなったと言える。
一方、ナスル朝は巧妙な立ち回りで生き延びた。国土がそもそも天険の地にあって、攻めるには難しかった。また、キリスト教勢力も、アラゴンは地中海への進出、ポルトガルは海洋立国、ナバーラ王国はアラゴン・カスティーリャ間の生き残り、カスティーリャは激増した国土の統治と内紛の対処、更にモロッコのマリーン朝との争いがあった。更にアラゴン王国とカスティーリャ王国が潜在的に敵対していたこともあって、各国ともナスル朝に対峙する情熱や余力が無かった。
然し、15世紀に入ると、ナスル朝を生きながらえさせた条件が徐々に失われ始める。カスティーリャは徐々に国内を安定させ、マリーン朝を撃退、ついでアラゴンとは政治的な接近を始めた。更に対岸のモロッコや地中海沿岸に有力なイスラーム勢力が居なくなったことは、これらとの同盟を通じての安全保障が出来なくなったことを意味した。1410年にはセウタがポルトガルに、1462年にはジブラルタルがカスティーリャに占領され、ジブラルタル海峡がキリスト教徒の手に落ちた。これでナスル朝は貿易のみならず、ムーア人の傭兵に依存していた兵力の供給も遮断された。
こうした中でもナスル朝内部では内紛が起った。合同を果たしたアラゴン・カスティーリャ両王国(スペイン王国)のカトリック両王はナスル朝に対する攻撃を開始し、1492年に、グラナダが陥落してレコンキスタは終了した。
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最終更新:2024/05/20(月) 19:00
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