同朋衆とは、室町幕府に仕えた遁世者の一団である。
室町幕府の序列の一つで、将軍に仕えていた遁世者たちのグループである。本来は幕府の年中行事を裏方として支え、公方への対面などには加わらない存在だったのだが、幕府構成員の減少で立場が浮上し、末期室町幕府では将軍近臣としても活動していった。
なお、「~阿弥」という名前を共通して持つため、近世以降かつては時宗の僧侶だと考えられてきた。少なくとも南北朝時代までに時宗の僧侶が陣僧として従軍しており、これをきっかけにして召し抱えられていったのが起源なのは事実である。ただし、「~阿弥」と名乗って将軍に仕えた人々すべてが同朋衆ではなく、また同朋衆がすべて時宗の僧侶でもない。遁世することが貴人に仕えるための条件であったとされたほか、彼らの有していた倉も重視されていたのではないかとされている。15世紀中ごろには成立していたため、他の「~衆」と同様に足利義教~足利義政期の成立とされる。
『斎藤親元日記』によると、足利義政、日野富子らの御供として、同朋衆と遁世者が別に登場し、両者が別のカテゴリーであることがわかる。遅くとも長禄から文政年間に、遁世者の上部集団が同朋衆となったようだ。
少なくとも16世紀には茶の湯は彼らと将軍の周辺から成立してきたと勝手に認識されており、能阿弥、相阿弥、千阿弥の「三阿弥」などの有名人だけを取り上げて主に文化史の分野でのみ議論されてきた。千利休が同朋衆の家系にあると認識されていったなど、文化面の故実を彼らに帰す思想が生まれたのである。結局、世阿弥は同朋衆なのかどうかといったことがようやく資料に基づいて議論されるようになった段階で止まったまま、1990年代前半くらいまでほったらかしにされていたのである。同朋衆は幕府の儀礼研究からも捨象されており、「東山文化」の知名度に反して、いまだによくわかってないことも多い。
少なくとも同朋衆として括られる人々にはさらに複数の身分に分かれており、年中行事などを取り仕切った「会所の同朋衆」、御供衆などと似た役割を持った「御供の同朋衆(「会所の同朋衆」から選ばれている)」、私的な場で仕えた「御末の同朋衆」といったものがあるようだ。
ただし、個々の家門が最終的にどうなったかはよく分からず、室町幕府の滅亡とともに消えてしまった。
同朋衆の前身にあたる人々で、あくまでも一芸によって将軍個人との関係を結んだ存在にあたる。足利義満期以来「~阿弥」と呼ばれる人々が将軍のそばにいたため同朋衆と区別されないことが多々見られるが、近年の研究では同朋衆以前の「~阿弥」の人々は別の存在とされた。
というか、この時期は別に将軍に限ったわけでもなく、大名や公家のそばに~阿弥という人がそれぞれいるのであって、その一類型に過ぎない。足利義満期の「~阿弥」は経済的に自立しており、あくまでもサロンの構成者でしかなかった。それこそが能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三阿弥である。
とはいえ、1は大館氏、伊勢氏とともに毎阿弥が行っている程度であり、あとは宇都宮の使者などが散見される程度である。
このうち毎阿弥は細川京兆家と畠山氏の間に位置付けるほどの地位の高さを誇っており、おそらく卑賤の出身ではないとされる。ただし、赤松義持の登場後、毎阿弥は地位を脅かされたとされる。
足利義教期になると、政治的な場面に申次が進出しだすが、将軍近臣とバッティングして満済の申次からは外されていく。一方蔭涼軒主の申次でも同じ状態になるが、こちらは足利義政期に専属となっていった。2に関してはほぼ武家に集約されていくが、赤松満政がこの業務に全く携わっていないことは赤松義持との差異がある。3は具体名が記されておらず、詳細は不明。
立阿弥の失脚で対満済の申次から外され、一色氏や伊勢氏の台頭につながっていく。一方で蔭涼軒主の申次や、別途一芸によるアピールなどが行われ、この時点でもまだ職掌としての同朋衆は存在しなかったようである。また、足利義教期には、後世の御末の同朋衆にあたる存在も次第に登場し始めている。
なお、足利義教という特異な将軍就任例の結果、将軍ごとに相続されなかった近臣集団が初めて続けて仕えることになり、近臣の官僚化が始まったといわれる。
少なくとも長禄・寛正・文正期に同朋衆の役割は以下であった。
文明期から明応の政変までになるとこうなった。
これらを見ていくと、申次の相手はほぼ蔭涼軒主、つまり相国寺に限り、その内容は将軍家の仏事・祈祷が中心であったようだ。そしてこの時期に至っても、奉公衆と阿弥号者がこの分野に限っても競合しているのである。
このうち同朋衆と明確に呼ばれている人物が行ったのは、1~3の仕事である。足利義政期になると給与と御料所の代官職等知行権の相続が確認され、完全に同朋衆の家門が成立した。
という具合に、大きく春阿弥・千阿弥一族と、誉阿弥・調阿弥一族の二系統がまずいたようだ。
足利義材の時代になると、足利義政・足利義尚の同朋衆に、新規登用の同朋衆が加わり、同朋衆の数が急増する。ただし、同朋衆の名前がほとんど似たものが繰り返し登場することから、家門はそのまま存続していたといわれている。16世紀になると将軍のそばにいる阿弥号の人物はすべて同朋衆となり、今度は同朋衆の中で身分が分化していったといわれる。
※会所の同朋衆には〇、御供の同朋衆には△をつける
なお、『蔭涼軒日録』によると以下の二名も加わっていたようだ。
一方足利義政には以下の人々が仕えていた(おそらく全員会所の同朋衆)。
幕臣の減少に伴い、会所の同朋衆が徐々に日常的な調度や茶事を行うようになってきた。
おそらく足利義晴期から11人が定員となった新たな家格秩序が形成されたようだ。
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