曹彰とは、下記の事物を指す。ここでは1について説明。
字は子文。曹操の四男で、卞夫人との二番目の男子にあたる。
素手で猛獣と格闘したといわれた程の武勇の持ち主。また弓術や馬車の扱いに優れていた。父の曹操が「いくら剣の腕を磨いても人の上に立つ者にとってどれだけ役に立とうか」と学問を推奨しても、「男子たるもの兵を引き連れ戦うことが本望であり、博士になる気はない」と聞く耳を持たず「自分の夢は将軍になり兵を率い戦うこと」と言っていた。
曹操が魏を建国すると鄢陵侯となる。代郡(河北省張家口市)の烏桓征伐に赴き、烏桓の伏兵に襲撃されるも田豫の献策を得てこれを打ち破る。曹操は曹彰を「黄鬚」(鬚が黄色い、というより虎髭を生やしたような勇者)と呼び大いに賞賛した。驍騎将軍に任ぜられた曹彰は、烏桓と手を結んだ鮮卑の軻比能を攻め、これを服従させた。
曹彰は規定の倍の賞与を将兵に与え、多くの将兵に支持されていたという。
定軍山の戦いの後、曹操は曹彰を呼び寄せたが曹操が漢中から早々と撤退したため間に合わなかった。
曹操が洛陽で死んだ時は長安に駐屯しており、父の招きを受けて早馬で急行したが間に合わなかった。到着して「先王の璽綬(魏王であることを示す印と紐)はどこか」と訪ね、賈逵に「太子様(曹丕)は別におわします。璽綬のありかなど貴方が問い合わせることではありません」と叱責されている。
兄の曹丕が魏帝になると曹彰は任城王に封ぜられたが223年(黄初4年)に洛陽で急死、威王と諡された。
その突然の死は、かつての賈逵との言動を兄に警戒されて憤死した(正史の注にある『魏氏春秋』)、果ては曹丕に毒殺された(『世説新語』)などの疑念が生まれることになった。
『魏氏春秋』では、曹魏の二代皇帝曹叡が養子として育てた曹芳(のち三代皇帝)、曹詢の兄弟は曹楷の子達であるという説が書かれている。
烏桓の反乱を鎮圧し、漢中をめぐる攻防戦で劣勢に立たされていた曹操の救援に駆けつける。蜀将の呉蘭を討ち取る活躍を見せる。
曹操の死の際は兵を率いて曹丕の元に押し寄せたが賈逵の説得を受けて曹丕に将兵を引き渡す。
蜀以外の人物が尽く冷遇されている作品だが、曹彰は例外的に最後まで活躍し、北に逃れて遊牧民の王となる。
孫権の飼う虎と戦ってその心臓を手刀で抉り出すなどもはや人外なところを見せる。
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最終更新:2024/04/24(水) 20:00
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