柳家小さん(やなぎやこさん)とは、江戸落語の噺家である。また、落語家史上初の人間国宝に認定された人物としても知られる。本名は小林盛夫だが、後に大物となる三代目桂三木助と同じ(尤も、これは小さんファンの父親がつけたため)。また、剣道の達人としても知られ、七段の猛者であった。
厳密には江戸落語の名跡であるが、今日では5代目・柳家小さんを指すことが多いので、本記事はこの5代目に絞って記述する。6代目柳家小さんは実子、柳家花緑は孫にあたる。
出身は長野県長野市。元々実家は東京の五日市で養蚕業を営む裕福な家庭の生まれで、実父が長男でなかったため後を継ぐ必要がなく、長野市で紡績業や金融業を営む。しかし、商才がなかったため相次いで会社を破綻させ、仕方なく息子(小さん)らも連れて浅草に出戻りした。だが、その後に関東大震災で一家は被災し、丸の内に転居することになった。
つまり、生まれこそ長野県長野市だが、実の育ちは東京都千代田区である。そこで13から剣道を習い、法律事務所で働きながら、噺家を目指すことになった。だが、その後戦時中となり、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され、二等兵となった。だが、その後二・二六事件を体験した後に除隊されることになり、噺家の道が再度開けるという数奇な運命を辿る。
戦後まもなく真打に昇進し、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生らとともに江戸落語界を牽引する存在となった。だが、落語協会会長在任時に真打制度の在り方を繞って前会長の圓生と方向性が合わず落語協会の分裂騒動が起こる。三遊亭圓生一門、古今亭志ん朝一門、橘家圓蔵一門、立川談志一門が落語協会から離脱を表明するなどしたが、最終的には寄席席亭の「新団体は寄席興行に起用しない」との声明をきっかけに大多数の噺家が落語協会に残留。三遊亭圓生一門のみが離脱するという結末で終わったが、色々と澱みを残すこととなった。
しかし、小さんは穏やかな人柄であり、真打制度を緩和させようとしたのも若い噺家の収入が不安定で、将来的ななり手がいなくなるという危惧を抱いてたからであった。一方の、圓生は真打は最終目標であり、実力を伴った者の証であるという意見も尤もである(特に林家三平の息子であった、林家こぶ平の真打昇格は一悶着あり、結果的に真打昇格試験が廃止されるきっかけとなっている)。詳細は真打を参照。
小さん自身の受賞歴は輝かしいものである。1962年には芸術祭奨励賞、1980年には紫綬褒章、1983年には日本放送演芸大賞功労賞、また都民文化栄誉賞、勲四等旭日小綬章、そして1995年には落語家で史上初となる人間国宝(重要無形文化財)となるのである。後に桂米朝も人間国宝となり、二人で仲良く活動していた。
しかし、その頃にはもう老いも始まっており、1996年には脳梗塞で倒れ後遺症が残り、2002年に心不全で亡くなった。
庶民派として知られる、相手をぐっと引き込む巧みな話術と豊かな表情で、間合いと溜めを駆使した、メリハリのある明るい演出に定評があった。また、武士や町衆といった男役は好きだったが、色気のある女役はあまり得意としなかったようで、レパートリーを見ても色気の立つ芸妓や妾が出てくる噺は少ないとされる(一方、気品をあまり必要としない、口うるさいお上さんなどは得意としていた)。得意噺は「青菜」「禁酒番屋」「粗忽長屋」「宿屋の仇討」「湯屋番」などで、非常に多い。
また日本一美味そうに蕎麦を手繰る噺家としても知られ、それが縁か永谷園の「あさげ」のCMは大人気を博し、知名度アップに貢献している。
柳家小さんはまた、剣道をこよなく愛したことで知られ、「落語と剣道、どっちを取る?って質問されたら迷わず剣道と答える」と返したことで有名。東京剣道連盟の顧問を務め、また自宅を改造して道場まで作って弟子までとっていた(中には剣道七段の弟子もいる)。他に居合道や二天流剣術まで心得ていたという。
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最終更新:2024/09/13(金) 11:00
最終更新:2024/09/13(金) 12:00
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