| OB | |
|---|---|
| 猪俣隆 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 新潟県長岡市 |
| 生年月日 | 1964年6月25日 |
| 身長 体重 |
186cm 82kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 左投左打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1986年 ドラフト1位 |
| 引退 | 1998年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
堀越高等学校に進学。3年時には都大会準決勝まで勝ち進んだものの、甲子園大会出場歴は無し。
卒業後、法政大学へ進学。大学同期に石井丈裕・高田誠、1学年上に西川佳明投手・若井基安、1学年下に秋村謙宏、3学年下に葛西稔投手らがいた。1年春の新人戦では史上初となるノーヒットノーランを達成。その後も在学4年間通算で20勝、180奪三振を奪うなどエースとして活躍し、大学日本代表にも選ばれるなど、プロからも注目の選手となっていった。
1986年ドラフト会議にて、近藤真一の外れ1位として阪神タイガースから指名を受け入団。新潟県出身の選手としては初めてのドラフト1位入団であった。同期入団には八木裕らがいた。
初年度の1987年から登板機会を得ることに成功。22試合に登板し、5勝7敗、防御率2.94まずまずの成績を残し、今後が期待された。
しかし、翌1988年は右頸肩腕症候群を発症し、一軍登板なしに終わる。
1989年、復帰を果たし、リリーフを中心に41試合に登板し4勝6敗3セーブ、防御率4.19という成績を残す。ただ、故障の影響やフォーム改造の影響か制球力が低下。以降、この制球力の無さに悩まされることになる。
1990年、先発投手に復帰。同年はチームが低迷したこともあり5勝11敗と負けが大きく先行したが、防御率は3.27という成績をのこした。
1991年、9勝13敗、防御率3.29という成績を残した。シーズン最終盤には、猪俣を含めたドラフト1位入団選手5人による5試合連続完投勝利の4試合目の勝利投手として、低迷期脱出への光となった。
1992年、仲田幸司・湯舟敏郎とともに左の先発三本柱を形成し、チームの躍進に貢献したが、シーズンフルに活躍できたわけではなく、個人成績の面でも5勝5敗、防御率5.00とやや精彩を欠いた。
1993年、11勝12敗、防御率3.89とキャリアハイとなる勝ち星を挙げた。
以降は故障に苦しめられ、登板機会が減少。
1997年、登板なしに終わり、シーズン終了後、戦力外通告を受けた。
1998年、中日ドラゴンズへ移籍。だが、故障の影響で一軍登板なしに終わり、シーズン終了後、2年連続で戦力外通告を受けた。
中日退団後、渡米しマイナーリーグや独立リーグに活路を求めたものの、結局は現役引退。
引退後、寿司職人として修行を重ね、現在はアメリカの地で寿司職人として働いているという。
パワーのある直球とカーブやナックルなどを武器に打者をねじ伏せた左腕。度重なる故障やフォーム改造失敗に泣かされ、制球面では苦しんだ。
ムラっけが強く、ツボに入ると強力打線でも手がつけられないが、不調時には自滅することも目立った。
愛称は、ウォーレン・クロマティにかけて「イノマティ」と呼ばれていた。
なお、寿司を握る際には、左ではなく右で握るとのこと。
| 通算:9年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 191 | 21 | 7 | 43 | 63 | 3 | --- | .406 | 807.1 | 402 | 623 | 360 | 330 | 3.68 |
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最終更新:2025/12/05(金) 22:00
最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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