高田誠とは、
OB | |
---|---|
高田誠 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都江東区 |
生年月日 | 1964年6月9日 |
身長 体重 |
179cm 84kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投両打(-1995年) 右投左打(1996年-) |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1986年ドラフト3位 |
引退 | 1998年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1964年東京都江東区に生まれる。法政二高では3年時に正捕手と4番を任され、21年ぶりとなる夏の甲子園出場に貢献。甲子園でも9打数5安打2打点4四死球の好成績を残したが、チームは3回戦で敗れた。
卒業後はそのまま法政大学に進学。2学年上には後にヤクルトスワローズなどで活躍する秦真司がいた。その秦の引退後に頭角を現し、3年時・4年時と2年連続で日米大学選手権の代表チームに選ばれた。
また4年時には主将として東京六大学リーグでの優勝にも貢献したが、ベストナインは慶應の主将・石井章夫[2]らに阻まれて一度も受賞できなかった。
1986年のドラフト会議で巨人の3位指名を受け、入団を決める。なお2013年時点では法政大学で巨人のドラフト指名を受けた最後の選手となっている。
入団当時の巨人で正捕手を務めていた山倉和博が1988年頃から急速に衰え始めたため、高田もその後継者候補として期待を受けた。
ライバルは既に盛りを過ぎた移籍組の有田修三・中尾孝義や肩に難のある村田真一らで、高田にも割って入るチャンスはありそうだったが、如何せん打撃が非力に過ぎたため二番手捕手にもなれず、二軍暮らしの日々が続くことに。
結局巨人では活躍できないまま、1991年のオフに藤田浩雅とのトレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍することになった。
移籍当時のオリックスは強肩強打の若手捕手・中嶋聡が正捕手として台頭したばかりで、高田には厳しい戦いが予想された。ところがこの頃から中嶋が打撃不振に陥り、逆に高田は課題の打撃面である程度改善を見せたため、次第に中嶋と併用されるようになり、1993年・1994年には中嶋を押しのけて正捕手の座を確保するまでになった。
ところが翌1995年に起きた阪神大震災で自宅が損壊するという不幸に見舞われると、グラウンドでも復調した中嶋に正捕手の座を奪い返されたばかりか、二番手捕手の座も三輪隆に奪われてしまう羽目に。仰木マジックの一環として一塁手や指名打者としても起用されたが結果には繋がらず、チームはリーグ優勝を果たしたものの、高田にはやや不本意な一年となった。
雪辱を期した翌1996年も当初は三番手捕手に甘んじていたが、後半戦は再び正捕手に返り咲き、チームのリーグ二連覇に貢献。古巣・巨人との対決となった日本シリーズでも全試合でマスクを被り、巨人打線を抑え込む好リードで日本一を手繰り寄せた。捕手として出場したのは66試合と中嶋より少なかったものの、後半戦の活躍を評価されこの年のゴールデングラブ賞に選ばれている。ちなみに捕手部門の表彰[3]にオリックスの選手が選ばれたのは2013年時点でこれが最後となっている。
だが翌年以降はまた三番手捕手に逆戻りしてしまい、1998年に中嶋のFA移籍と脱税事件による三輪の出場停止で得たチャンスも極度の打撃不振で掴むことができなかった。この年のオフに戦力外通告を受け、現役を退いた。
現役引退後は指導者として巨人に復帰。1999年から2003年まで二軍バッテリーコーチを務め、2004年・2005年は堀内恒夫監督の下で一軍バッテリーコーチとして入閣を果たした。
その後はいったんユニフォームを脱ぎ、ジャイアンツ・アカデミーのヘッドコーチやチーフスコアラーを務めていたが、2012年・2013年は一軍ブルペンコーチとして再び現場に復帰し、リーグ二連覇に貢献した。2014年からは二軍ファームディレクター補佐に転じている。
2016年からは再び二軍バッテリーコーチを務め、2019年は二軍監督に就任したが、阿部慎之助の二軍監督就任に伴い同年限りで退任した。2020年からは再びファームディレクター。
通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 467 | 1190 | 1011 | 98 | 236 | 45 | 6 | 10 | 101 | 2 | 48 | 10 | 114 | 7 | 178 | 21 | .233 | .313 |
基本的に専業捕手だったが、仰木彬監督の下では時折一塁手や指名打者としても起用されていた。1996年には1試合だけ三塁の守備に就かされたこともあったが[4]、さすがに不慣れだったためか1失策を献上している。
スイッチヒッターの捕手としてはNPB歴代でもトップクラスの実績を残しているにもかかわらず[5]、「歴代スイッチヒッターベストナイン」などの考察ネタでは大抵存在を忘れられている。これはチームが日本一となり自身もゴールデングラブに選出されるなど注目を増した1996年シーズンを前に左打者に転向していたためと見られる。
1997年シーズンにオリックスで一軍捕手として起用されたのは中嶋・三輪・高田の3人だけだったが、シーズンオフに中嶋がFA移籍し、さらにオフ中に発覚した脱税事件で三輪が出場停止となったため、1998年3月に発売された実況パワフルプロ野球5(コナミ・N64)ではオリックスの登録捕手が高田一人だけという惨事になった。貧打の高田に代打を出せない上に故障離脱が即投手陣の崩壊に繋がるため、いささか使いにくいチームになっていた。
掲示板
3 ななしのよっしん
2016/08/07(日) 02:31:48 ID: PTaN4rRz6n
例のあの人の本名
4 ななしのよっしん
2016/11/01(火) 18:19:07 ID: gVrRejE4mD
あーパワプロ5懐かしいなw確かに彼一人しか捕手いなくてオリックスは大変だったww
5 ななしのよっしん
2022/07/12(火) 20:58:26 ID: GvC2oOwf+a
>>4
片や、パワプロ5同様に脱税事件の影響を受けたナムコのワールドスタジアム2は流石にオリックスの捕手が1人ではまずいとスタッフは思ったか高田の他に新人の高橋信夫が収録されるという形になったね
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/22(金) 03:00
最終更新:2024/11/22(金) 03:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。