「笮融(サク融)」(サク・ユウ ? ~ 197)とは、後漢末期の武将であり、自分を賓客扱いしてくれた恩人や共に戦った戦友すら利己的な理由で殺害した狂犬の様な汚物ながら、当時はたいして広まっていなかった仏教を信仰し、大寺院を建立して布教に努めて、中国の仏教における拡大の礎を築いた功労者でもあるという不思議な人物である。
| この記事の本来の表記は「笮融」ですが、「笮」の字が表記できないブラウザを考慮して、 「サク融」と記述する場合や「笮融(サク融)」と併記する場合があります。 |
揚州丹楊郡の出身で、はじめは徐州牧の陶謙に仕えて物資輸送の監督官を務めていたが、その裏で物資を私物化して不正蓄財し、信仰していた仏教の為に、3000人を収容できる大寺院の建立に使用していた。
しかし、仏教振興の裏で行っていたあまりの悪徳ぶりが陶謙に目をつけられて疎まれた為、陶謙が曹操に攻められた際には、彭城の薛礼と共に揚州刺史の劉繇に通じたうえ、広陵太守の趙昱を頼った。
趙昱から賓客として厚くもてなされた笮融(サク融)だったが、元来の狂犬の血が趙昱の治める広陵の豊かさを目にとめ、厚遇してくれた趙昱をあっさり殺して広陵で略奪の限りをつくした。
劉繇が孫策に攻められた際は、、秣陵を守っていた薛礼と共に劉繇を支援し、孫策に矢傷を負わせたが、その傷がもとで孫策が死んだという偽情報に踊らされて罠に嵌ってしまい、結果、劉繇軍は孫策により大敗北を喫した為、劉表を頼って薛礼と共に劉繇にしたがって落ち延びた。
豫章太守の座を、諸葛亮の叔父の諸葛玄と朱皓が争った際に、薛礼と共に朱皓を救援した笮融(サク融)は、諸葛玄が戦死して朱皓が勝利したところで、豫章を地盤に独立しようと考え、味方であった朱皓や歴戦を共にした薛礼を殺して豫章の支配者となった。
傍若無人な狂犬ぶりの結果、ついに劉繇と戦う事になり、敗れた笮融(サク融)は、豫章でも略奪の限りをつくしていたことから、敗走中に地元の住民に捕らえられて狂犬にふさわしいあわれな最期を遂げて消毒された。
仏教の大寺院を建立した事等から、現在では中国の仏教が広まる基礎をつくった人物とされているが、仏教すらも自身の(お山の大将的な)欲を満たすものであったのではないかとも推測されている。
劉繇の家臣として登場するが、史実の狂犬ぶりはまったく影を潜めている。
同僚の張英が、孫策に敗れて退却してきた際に劉繇から処刑されそうになったが、笮融(サク融)がなだめた事で事なきを得ている。
劉繇が孫策に敗れた際に、劉表を頼って落ちのびるのに従って以降、笮融(サク融)は登場しない。
※その他「笮融(サク融)」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
| 能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
| 三國志 | - | - | - | - | - | ||||
| 三國志II | - | - | - | ||||||
| 三國志III | 45 | 59 | 62 | 38 | 41 | 27 | |||
| 三國志IV | 46 | 44 | 60 | 61 | 39 | ||||
| 三國志V | 60 | 24 | 61 | 48 | |||||
| 三國志VI | 62 | 59 | 21 | 71 | 39 | ||||
| 三國志VII | 61 | 38 | 16 | 10 | |||||
| 三國志VIII | 61 | 36 | 16 | 16 | |||||
| 三國志IX | 65 | 71 | 38 | 11 | |||||
| 三國志X | 62 | 68 | 40 | 26 | 4 | ||||
| 三國志11 | 60 | 69 | 38 | 21 | 14 |
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最終更新:2025/12/11(木) 13:00
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