薬王菩薩本事品は、法華経の品(章)の1つである。
法華経の漢訳の中で最も人気のある『妙法蓮華経』では薬王菩薩本事品第二十三という。法華経のサンスクリット語原典の『サッダルマ・プンダリーカ』ではバイシャジャラージャ・プールヴァヨーガ(薬王の前世の因縁)という。
妙法蓮華経において本事とは「前世の因縁」「前世の物語」といった意味になる。
宿王華菩薩が釈迦牟尼仏に「薬王菩薩はどのような修行をしてきたのですか」と質問したので、釈迦牟尼仏がその質問に答えていく。
はるか昔に、日月浄明徳仏がおり、法華経を説いていた。その説教を聴く菩薩の1人に一切衆生喜見菩薩がいた。その菩薩は長い修行を続け、現一切色身三昧を得た。
一切衆生喜見菩薩は現一切色身三昧を実行して、花を降らせたり、高価な香水をまき散らしたりして、日月浄明徳仏を供養した。そして「このような行為だけでは日月浄明徳仏への供養にならない。自分の肉体を捨てることによって供養しよう」と思った。
そこで一切衆生喜見菩薩は、12年にわたってひたすら樹脂を食べたり油を飲んだりした。そして油を体に塗ってから自分の肉体に着火した。すると、一切衆生喜見菩薩の肉体から放たれる光によって多くの世界が照らされた。
日月浄明徳仏は一切衆生喜見菩薩を絶賛し、「自分自身の肉体を贈与するのは最高級の贈与である」と讃えた。
一切衆生喜見菩薩の肉体は1200年かけて燃え続けた。1200年経ったあと、一切衆生喜見菩薩は王様の息子として転生したのだが、まだ日月浄明徳仏がいるので、日月浄明徳仏のところに行き、詩を歌って供養した。
日月浄明徳仏が入滅する直前に、一切衆生喜見菩薩に対して「教えや宮殿を引き継ぎ、自分の遺骨を供養せよ」と命じた。日月浄明徳仏が入滅したあと、一切衆生喜見菩薩は腕を燃やして供養した。
一切衆生喜見菩薩は腕を失って障がい者となったが、「私は仏陀のような金色の肌を得て、腕が復活するだろう」と念じると、それまでに積み重ねた功徳を原因として、腕が元通りになり、天から花が降り、地震が起こった。
釈迦牟尼仏は、一切衆生喜見菩薩が自身の肉体を燃やしたことを誉め、「自分自身の肉体を贈与するのは最高級の贈与である」と讃えた。
しかし釈迦牟尼仏は、その賞賛の直後に、「法華経の中の言葉を記憶することで得られる功徳は、布施をして得られる功徳よりもはるかに大きい」と述べた。
そして釈迦牟尼仏は、「法華経が様々な経典の中で最も優れている」と語った。「すべての星宿の中で月が輝きの王者であるのと同じように、法華経も様々な経典の中で最も優れている」と語り、この品の質問者である宿王華菩薩(全ての星宿の中の王者である月によって神通力を発揮した菩薩)の名前を連想させる表現をしている。
最後に釈迦牟尼仏は、「薬王菩薩本事品は、病人に対する薬のようなものになるであろう。薬王菩薩本事品を聴く者は、病気にもならず老いもしないであろう」と語り、この品の主人公である薬王菩薩の名前を連想させる表現をした。
この品で主人公となっているのは一切衆生喜見という名前の菩薩である。サンスクリット語のサルヴァ=サットヴァ=プリヤダルシャナ(全ての衆生の眼に快い)を翻訳した名前の菩薩で、簡単に言ってしまうと「容姿端麗で二枚目でイケメンの菩薩」ということになる。
イケメンの人が自分の肉体を惜しみなく捧げる姿は、なんとも意外性のある姿であり、読者の心をわしづかみにするものである。
ちなみに、勧持品第十三で摩訶波闍波提が「一切衆生喜見という仏陀になる」と予言されていた。こちらもサンスクリット語のサルヴァ=サットヴァ=プリヤダルシャナ(全ての衆生の眼に快い)を訳した名前である。
この品で一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳仏を供養するために行った三昧(神通力)は、現一切色身三昧である。サンスクリット語のサルヴァルーパ=サンダルシャナ(あらゆる姿を現し示す)を翻訳したものである。
この品における現一切色身三昧は、手品をするかのように念じただけでパッと物体を出現させる神通力である。一方、妙音菩薩品における現一切色身三昧は、念じただけで様々な姿に変身できる神通力である。
この品において最もショッキングな情景は、一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳仏を供養するために油をガブ飲みしてから自らの肉体に着火して自らの肉体を捧げる情景である。
インドは焼身自殺がしばしば行われてきた国である。そうした焼身自殺の情景を見た人が、薬王菩薩本事品の「油を飲んでから着火」という情景を書いたとしてもおかしくない。
「油を飲んでから着火して肉体を燃やして肉体を捧げる」という記述は、肉体労働の比喩表現と捉えることもできる。油を飲んだり樹脂を食べたりすることは栄養の付く食事をすることの比喩表現で、着火して自らの肉体を燃やすのは肉体を盛んに動かすことの比喩表現で、自らの肉体を燃やして障がい者になることは激しい肉体労働の末に肉体の一部が機能しなくなることの比喩表現である、と捉えるのである。
「日月浄明徳仏や釈迦牟尼仏が『自分自身の肉体を贈与するのは最高級の贈与である』と讃えるのは、要するに、肉体労働を讃えたのだ」という解釈である。
頭脳労働だけを重視して肉体労働を軽視するような人を生むと無階級社会を作ることができず階級社会を出現させてしまい、望ましくないことになる。
中国には孟子という思想書があり、そのなかに「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる」という一文がある(資料
)。また中国には春秋左氏伝という思想書があり、そのなかに「君子は心を労し、小人は力を労す。先王の制なり」という一文がある。そのような思想書の影響があり、中国では伝統的に肉体労働卑下思想が残っているとされる[1]。清朝末期には、会議を行うために清国側の知事が英国領事館を訪れたが、イスや机を並べていた英国の領事を見て「これは小人か」と思って会議に出席せずに帰ってしまったという[2]。
「油を飲んでから着火して肉体を燃やして肉体を捧げる」という記述が肉体労働を賛美するものだとすると、そうした行為をした一切衆生喜見菩薩が薬王菩薩に転生したこととの整合性が出てくる。医薬品のなかには、肉体の健康を保って肉体労働をうまく行えるように補助するものが多いからである。
釈迦牟尼仏は、「財宝を贈与する布施よりも、肉体を贈与する布施のほうがずっと功徳が大きい」と語った。しかしその直後に、「布施をして得られる功徳よりも、法華経に関する智慧を持つことで得られる功徳のほうがずっと功徳が大きい」と語った。
後者の主張は、分別功徳品第十七や随喜功徳品第十八や観世音菩薩普門品第二十五と同じものである。
薬王菩薩本事品は女性差別がはっきり見られる品である。
薬王菩薩は過去に日月浄明徳仏の仏国土にいた。その仏国土は女性がおらず、平穏だったという[3]。女性差別をはっきり示す文章であるが、こうした記述は法華経にたまに出現する。たとえば五百弟子受記品第八や観世音菩薩普門品第二十五で紹介される仏国土は「女性がいない」と書かれている。
また釈迦牟尼仏は「薬王菩薩本事品経を聴いて心にとどめた女性は、この世が女性として最後の生涯となるであろう」と述べている[4]。これも女性差別をはっきり示す文章である。
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