親友交歓とは、太宰治の文学作品である。1946年12月に発表された。
文学のジャンルとしては随筆にあたる。
作者の逝去から70年が経って著作権が消滅しているので、青空文庫やAmazon・Kindle版にて無料で読むことができる。
太宰治は、1945年7月28日に山梨県甲府市を出発し、鉄道で移動して、青森県五所川原市のこの場所にある実家に疎開していた。1946年11月まで、青森県の実家に居候として滞在しており、その最中、子供の頃のクラスメイトたちの訪問を受けていた。そのときのエピソードの1つを収録したのが本作品である。
1946年9月のはじめに、太宰治のもとを平田という元・クラスメイトがやってきた。
平田について、太宰はこのように記している。
十五年間の東京生活に於いては、最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、いわゆる最下等の人物たちと語り合っていたものであって、たいていの無頼漢には驚かなくなっているのである。しかし、あの男には呆れた。とにかく、ずば抜けていやがった。
彼は実に複雑な男であった。とにかく私は、あんな男は、はじめて見た。不可解といってもいいくらいであった。私はそこに、人間の新しいタイプをさえ予感した。
小学校時代の同級生とは言っても、私には、五、六人の本当の親友はあったけれども、しかし、このひとに就いての記憶はあまり無いのだ。彼だって、その頃の私に就いての思い出は、そのれいの喧嘩したとかいう事の他には、ほとんど無いのではあるまいか。しかも、たっぷり半日、親友交歓をしたのである。私には、強姦という極端な言葉さえ思い浮んだ。
1946年9月時点の太宰治は37歳である。訪問していた平田も、37歳程度ということになる。
この作品が書かれたときは共産主義(太宰治は「イデオロギスト」と呼んでいる)と保守主義(共産主義者に言わせると「反動勢力」となる)の論争が激しい時代だった。ご存じのように、共産主義は資本家や地主を攻撃して労働者を美化する傾向があるのだが、そのついでに農夫を美化することがある。本作品の冒頭で、「農夫を貶めて反動勢力に加担しようとするために書いたのではない」と言い添えてあるのは、このため。
平田は「クラス会の酒は1人二升」と提案している。一升は1.8リットルなので、二升は3.6リットルに当たる。
メチルという酒の名前が出ている。メチルとは「メチルアルコールを使って作られた酒」で、終戦直後の物資不足の時代に密造酒として作られた。これを飲んで失明する例が続出し、「目散るアルコール」「バクダン」として恐れられた。(資料1、資料2、資料3)
1946年4月10日の衆議院議員総選挙で、太宰治の兄の津島文治(当時48歳)が当選している。このことが作中にも出てくる。
八幡様で若い者たちの大喧嘩があるかもしれぬ、という文章が出てくる。これは元町八幡宮のことで、この場所にあり、太宰治の実家から南に10kmほど離れた近所にある。
幡随院の長兵衛とは、江戸時代初期の人で、派手な身なりを好み喧嘩をしたことで有名な侠客である。
ホクチとは、漢字で「火口」と書き、火をおこす道具のこと。火打ち石で火花をホクチに飛ばし、ホクチに着火させ、ジワジワと燃え広がった所に付け木をあてて炎にする。(このページが資料)ライターではなく、マッチでもなく、ホクチという言葉が出てくるところに時代を感じる。
木村重成は1615年の大坂の陣で有名になった豊臣家の武将。茶坊主に馬鹿にされたがその侮辱をスルーした。神崎与五郎は神崎則休のことで、江戸時代の武士であり、忠臣蔵で有名。丑五郎という馬子(馬を使用して武士に仕える人で、身分が低い)に馬鹿にされたがその侮辱をスルーした。韓信は古代中国の武将で、若い頃ヤクザに絡まれて股くぐりをしろと馬鹿にされたがその屈辱を甘んじて受け入れた。この3名は「侮辱を甘んじて受け入れ、後に大活躍する」という点で共通しており、忍耐の重要性を説くため戦前の教科書に載っていた。
「山川草木うたたあ荒涼 十里血なまあぐさあし新戦場」とは、乃木希典という日露戦争で有名な武将が作った漢詩『金州城下の作』である。内容はこのページやこのページに詳しい。こんな感じに詩吟する。津軽の民謡などを期待していた太宰だったが、出てきたのは全国の日本人なら誰でも知っているような漢詩だった。
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最終更新:2024/05/06(月) 10:00
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