通勤五方面作戦とは、日本国有鉄道が実施した首都圏における大規模輸送改善策である。
1965年(昭和40年)からの第三次長期計画において通勤時の混雑解消を目的に実施された設備改良による輸送改善策。
東海道方面の中心駅である東京駅及び東北方面の中心駅である上野駅から放射状に伸びる五方面(東海道本線、高崎線・東北本線、総武本線、中央本線、常磐線)を複々線化、あるいはバイパス線建設により混雑解消を目指した。
当時の首都圏は高度経済成長と首都圏への人口流入により「通勤地獄」と呼ばれるほどの混雑であり、混雑率は200%台から300%に推移していた。しかし、国鉄では第二次長期計画までは長距離輸送の改善策が主であり、かつ十河信二総裁時代は(輸送量が逼迫していた東海道本線の長距離輸送改善のための)東海道新幹線の建設に全勢力を投下していたため通勤対策は後手に回っていた。
加えて、十河信二総裁時代に監査委員を務めていた石田礼助は当初は「政府や自治体当局がイニシアチブを取るものであり、国鉄単体の仕事ではない」と消極的であった。しかし、石田礼助が第5代総裁就任後に通勤地獄の駅を視察したことで、「ふりかかる火の粉は振り払わなければならない」と解消に取り組むこととしたものである。
第二次計画までは国鉄が全負担で行なっていたが、通勤定期代は割引が大きく運賃収入だけでの工事資金回収に難があるため政府への出資要請を行なった。実際、石田礼助総裁のもとで指揮を取っていた磯崎叡副総裁(後の第6代国鉄総裁)は「通勤代はタダでいいから政府が金を出すべきだ」と発言していた程である。
この通勤五方面作戦により、下記の通り設備改良が行われた。
なお、第三次長期計画のあとも輸送改善は継続され、現在のJR東日本のドル箱路線となっている。このこともあり、葛西敬之は計画を実施した石田礼助を「名総裁」と評している。
一方、莫大な資本投下を行なったものの、政府からの出資は借金の利子分のみであり、かつ運賃値上げも法改正が政争で廃案になったりした結果資金回収ができず、国鉄の借金が積み重なり減価償却前の赤字に転落。政府はしばらくは財政投融資で国鉄の赤字をごまかしていたものの、高木文雄総裁時代にそれまでの未回収を取り戻すべく5割の運賃値上げを毎年のように実施。しかし時すでに遅く、後の国鉄分割民営化の引き金にもなっている。作戦当時経理にいた葛西は後に「先に政府が資金を拠出していれば後から(債務返済のために)逐次大金を注ぎ込むこともなかっただろうに」と述べている。
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最終更新:2025/12/13(土) 01:00
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