ソーライスとは、白ご飯にウスターソースをぶっかけたものである。
大阪の阪急百貨店うめだ本店で生まれたとも言われており、その発祥の逸話には阪急阪神東宝グループの創始者・小林一三(こばやし・いちぞう 1873~1957)が深く関わっている。
ソーライスと小林一三
ソーライス発祥の逸話にはいくつかバリエーションがあるが、大体以下のようなものである。
昭和4年に開業した阪急百貨店うめだ本店は、最上階の8階に大食堂を有していた。お昼になると学生やサラリーマンで大繁盛しており、みな人気商品の「ライスカレー(20銭)」に卓上備え付けのソースをかけて食べていた。
ところが昭和5年~6年にかけて発生した「昭和恐慌」の影響でサラリーマンのお財布事情は一気に苦しくなり、ライスカレーを食べることさえ困難になった。仕方が無いので、彼らはライス単品(福神漬が付いて5銭)を注文し、卓上のソースをかけて食べた。これが「ソーライス」あるいは「ソーライ」と呼ばれるようになった。
阪急百貨店としては、ソーライスを容認していては売上に響くので、ライスだけの注文を断るなり、卓上からソースを引っ込めるなり、何らかの対策を講じようとした。
しかし、小林一三が「それはならん」と制した。
「彼らは今は貧乏だが、いずれ家庭を持つ。そのとき『貧乏してた頃、阪急百貨店は快くソーライスを食べさせてくれた』と昔を懐かしんで、家族連れでうちに来店下さるだろう」
そして「ライスだけのお客様を歓迎します」という貼り紙まで出させた。
後年、関西の財界人の間で「阪急食堂でよくソーライ食うたな」というのが、共通の昔話となった。
上記に加えて、
「小林一三が福神漬の入った容器を持ってテーブルを回り、ライスだけの客に福神漬を追加盛りして回った」
とか、
とか、
「以前にソーライスで飢えを凌いだ人達が敢えてソーライスを注文し、当時の御礼の意味も込めて、高額のチップを食器や食券の下にそっと置いていった」
というようなエピソードが足される場合もある。
戦前戦中生まれの関西人を中心に知られた逸話であり、事実と信じている人も多い。
一方で脚色めいた部分も見られ、貼り紙の存在を疑問視する向きもある。
実際のところ、阪急百貨店の大食堂でソーライスは食べられていたのだろうか?
「ライスだけのお客様を歓迎します」という貼り紙は実在したのだろうか?
一体この逸話はどこまでが真実なのか?
ソーライスの逸話にソースはあるのか?
ここから先は、いくつかのソースを元にソーライスの逸話を検証していく。
ソース① 社史と自叙伝
ある程度知名度のある逸話なら、阪急の関係者が作った資料には何か書いてあるに違いない……と思いきや、阪急百貨店も阪急文化財団も、阪急の社史や小林一三の著作の中にソーライスの逸話についての記述は存在しないと回答している。
ソース② 清水雅『小林一三翁に教えられるもの』
小林一三が死去した1957年に発表された『小林一三翁に教えられるもの』は、小林の側近を長年務め、後に「阪急の大番頭」と呼ばれた清水雅(しみず・まさし 1901~1994)が、小林との思い出を綴った本である。紹介されているエピソードの中には阪急大食堂のライスカレーをはじめ、食べ物にまつわる話も多いが、こちらもソーライスに関しては一切言及していない。
というわけで、ソーライスの逸話どころか、ソーライスが食べられていたかどうかも怪しくなって来たわけだが、今度は第三者の証言を見てみよう。
ソース③ 水上瀧太郎『出張日記』
水上瀧太郎(みなかみ・たきたろう 1887~1940)は、文芸雑誌『三田文学』に参加していた文人であり、創作活動の傍ら明治生命保険会社(現在の明治安田生命)や大阪毎日新聞社(現在の毎日新聞社)の役員を務めた財界人でもあった。水上が出張先で見聞きして感じたことを書き留めたのが「出張日記」である。
大阪で3年間働いた経験がある水上は小林一三と交流があった(二人とも慶応義塾大学出身で、仕事の傍ら創作活動をしていたという共通点もある)。水上は阪急百貨店の大食堂について、
ので、昭和8年に明治保険会社の役員として大阪支店に出張した折に、山名氏(作中に説明がないが、おそらく支店長クラスの人)にお願いして8階の洋食堂に案内してもらった。
ビフステーキ二十銭、米飯に福神漬をそへたのが五銭、冷珈琲五銭、合計三十銭で満腹した。品書を見ると、一品二十銭が最高で、十五銭程度が一地多い
さらに注目すべきは、山名氏から聞かされたという以下の記述である。
ライス・オンリイといふ註文をして、それにソオスをかけて喰ふものもゐるといふ。しかも此のライス・オンリイを嫌がらず、さういふ客には飯も漬物もかへつて多く盛つて出すといふ話だ。いかにも小林式で感服した
この日記は、日本が昭和恐慌から立ち直った年である昭和8年に書かれている。つまり、ソーライスとこれに関する逸話が生まれ、大衆の間で浸透したとされる時期に書かれた、現地の人間によるリアルタイムの証言と言える。
この記述は、阪急百貨店大食堂におけるソーライスの実在と、ライスだけの客を阪急百貨店が拒否しなかったことの強力な裏付けとなり得る。
- 洋食堂には学生、勤め人、商店員が多く、完全に満員だった
- 安くてボリュームがありメニューも豊富で、みな満足そうに食事をしていた
- ウェイトレスを呼ぶための呼鈴がおいてあるが、彼女らは「呼鈴を鳴らされるのは恥辱と思え」と教育されているそうで、巧妙迅速にサービスしていた
ことを記しており、大衆向けかつ心配りの効いた店だったことが伺える。水上も「大阪勤務になったら毎日通いたい」と述べている。
ただし、「ライスだけのお客様を歓迎します」の貼り紙については言及していない。
ソース④ 阪田寛夫『わが小林一三―清く正しく美しく』
阪田寛夫(さかた・ひろお 1925~2005)は大阪府大阪市生まれの詩人、小説家、児童文学作家で、小林一三を直接見たことはないものの尊敬と憧れの気持ちを抱いていた。そこで、小林一三の来歴や人物について取材して回り、小説という体でまとめたものが、1983年に出版された『わが小林一三―清く正しく美しく』である。
作中ではソーライスの逸話と共に、かつて梅田でサラリーマンをしていた老人に取材した際の、
という証言を紹介している。これはソーライスの逸話のバリエーションの一つ「小林一三が福神漬の入った容器を持ってテーブルを回り、ライスだけの客に福神漬を追加盛りして回った」を裏付けるものだが、匿名の人物が伝聞として語っているに過ぎず、信憑性が高いとは言えない。
ちなみに本作ではこんな逸話も紹介されている。
たとえば南諭造著『書窓の感懐』にも、著者の父の友人の体験として、昭和五年頃高名な作家を案内して(阪急食堂ではなく)宝塚の歌劇場の食堂に入った時に、土方風の男がどなりだした話が書いてある。怒鳴られたのは女給仕だったが、すぐに車掌風の制服姿の年輩の人が来て、「何でございますか」と訳をたずねた。その土方は、ライスを注文したのに見本のような福神漬がついていなかったことを怒っていたと判った。制服の男は頭を下げてあやまり、自分で皿に一杯福神漬を持って来て、これで気持ちを直して下さいと言った。制服を着ていたのは一三だった
なんだか随分出来過ぎた話だが、前述の清水雅によると、小林は時折宝塚歌劇場の見回りに来ており、その際は劇場の食堂で食事をしたそうなので、小林が食堂にいること自体は不思議ではない。
この宝塚歌劇場の食堂における逸話がソーライスの逸話に取り込まれたことで、新たなバリエーションが追加された、と考えることもできる。
なお、「ライスだけのお客様を歓迎します」の貼り紙については、「真偽は判らないが」という但し書き付きで紹介している。
検証結果
まとめると、
可能性が高いと考えられる。
ちなみに、阪急沿線に住む高齢者の中には、小林一三を「いちぞ(一三)はん」と呼んで敬う者もおり、前述の通りこの逸話を信じていたりする。不用意に「ソーライスの話って真偽不明らしいっすよwww」とか言って夢を壊すのは止めましょう。
「大衆の味方」ソーライスの逸話はなぜ生まれたか
要因として考えられるのは、当時の阪急百貨店が大衆向けで顧客ファーストな経営方針をとっていたことだろう。
阪急百貨店は世界初のターミナル駅直結型複合商業施設であり、呉服商を前身とする既存の百貨店(三越や松坂屋など)とは経営方針が全く違うものだった。
既存の百貨店:呉服がメインで食堂と雑貨は二の次、主な顧客は富裕層と花柳界と芸能界
阪急百貨店:食堂と雑貨がメインで呉服は二の次、主な顧客は阪急梅田駅を利用するサラリーマン
大食堂を最上階に配置したのも、食事をした帰りに途中にある雑貨屋を見て行ってもらおう、という小林の策だったと言われる。
当時の阪急梅田駅周辺には小さな商店、町工場、馬力の運送屋が立ち並んでいた。そういった中小企業に勤めるサラリーマンの需要に応えるためにも、良い物をどこよりも安く提供するといった「大衆の味方」な経営方針は効果的と言えた。
また小林一三は現場主義かつ非常に研究熱心だった。頻繁に各拠点を視察して改善を指示する一方、大衆により良いサービスを提供するには何が出来るか、あるいは需要をどのように掘り起こすか、常に工夫を凝らしていた。
こういった企業努力が実を結んで、阪急百貨店の評判が語り継がれるうちに、「ライスだけのお客様を歓迎します」と貼り紙を出したという、ソーライスの逸話が作られていったのだろう。
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