ハンス・ウルリッヒ・ルッツ(Hans Ulrich Lutz / 1944-2001)とは、2001年11月24日にクロスエア3597便墜落事故を引き起こした、無能とも言える機長である。
当記事では彼が引き起こしたクロスエア3597便墜落事故、及び当事故を取り上げたナショナルジオグラフィックのドキュメンタリー番組「メーデー!:航空機事故の真実と真相」の劇中において彼が受けた散々たる評価についても解説する。
事故概要
発生年月日 | 2001年11月24日22時07分(現地時間) |
機長 | ハンス・ウルリッヒ・ルッツ(57歳) |
副操縦士 | ステファン・ローラー(Stefan Löhrer/25歳) |
航空会社 | クロスエア (現:スイスインターナショナルエアラインズ) |
使用機材 | BAe 146 avro RJ100(機体番号:HB-IXM) |
墜落現場 | 北緯47度27分15秒 東経8度37分24秒 |
乗員乗客 | 乗員5名/乗客28名 合計33名 |
生存者数 | 乗員2名/乗客7名 合計9名 |
クロスエア3597便はドイツ・ベルリンとスイス最大級の空港があるチューリッヒを結ぶこの日の最終便で、乗客乗員33名が搭乗していた。乗客の中にはドイツのダンスポップグループ「Passion Fruit」のメンバー3名も含まれていた。機内は団体客21名のキャンセルが発生していたため空席が目立っていた。
本来であればこの便は空港北側から進入し14番滑走路に着陸する予定であった。しかし、その北側に居住するドイツの住民から騒音による被害を訴えられる国際問題が発生してしまい、夜22時以降は基本的に14番滑走路を閉鎖する規則が設けられた。当便もその規制に引っかかってしまい急遽東側から進入し28番滑走路に着陸する経路に変更となった。
14番滑走路にはILS(計器着陸装置)が備わっていたが、28番滑走路には当時それがなく代わりにVOR/DME方式での着陸が必要となる。この方式は、横方向のズレこそ空港からの電波を受信して確認できるものの縦方向(高度)のズレは計器類では確認できず、目視による滑走路の確認と着陸が必要であり上記の騒音規制が開始される前はほとんど使用されていなかった。
着陸進入時、運悪く分厚い雲に包まれ滑走路の視認が全く出来なかったのにも関わらず、機長はなぜか降下を続け空港から4,050mも手前の丘に激突、機長・副操縦士を含めた乗員乗客合わせて24名が犠牲となった。
なお、この事故でパッションフルーツのメンバーのうち2名が亡くなったが、このパッションフルーツが機内で騒いでうるさかったせいで、団体客のキャンセルもあり空いていた客室の後方に席を移動した乗客2名が運良く生存している。スイスを離発着する航空機がドイツ住民に騒音被害を与えていたが、一方その頃機内ではドイツ国民がスイスに向かう乗客に騒音被害を与えていた訳である。生存した乗客は後のインタビューで「もし後ろに移っていなければ、今頃は死んでたかもしれません。パッションフルーツは命の恩人ですよ」と語っている。
事故調査
事故現場からは本来とは上下逆さまに取り付けられたオイルゲージと、激突した丘が記載されていない航空図が見つかりクロスエアの社内体制不備を早くも伺わせた。エンジン等の故障も確認できなかったため調査は人為的ミス路線で進められた。
最初に航空管制によるミスが疑われた。事故当夜は女性管制官とそれを監督するスーパーバイザーの2名が管制塔にいたがスーパーバイザーが3597便が着陸する前に帰宅(スーパーバイバイザー)していたことが発覚。さらに、上記の騒音規制は悪天候時は対象外で、3597便の前に着陸したパイロットからも視界が悪いことに対する報告があり28番からの進入を取り消して再び14番からのILS進入に戻す指示を出すことも可能であった。
しかし、管制官は経験こそ浅かったものの全くミスをしておらず、その上視界不良報告はルッツ機長も聞いており、3597便側からも28番を拒否して14番に戻す要望を出すことが可能であったため責任はないと判断された。
次にパイロットによるミスが疑われた。そしてブラックボックス解析によってルッツ機長のとんでも操縦が発覚することになる。
まず①空港までの距離を示す距離計(DME)を6マイル手前で確認したのを最後に、それ以降は一切確認せず飛行していた。
次にまだ滑走路が見えていないにもかかわらず、②これ以上下がると障害物にぶつかる可能性があるという最低降下高度(チューリッヒ空港の場合は2,400ft)を大きく下回って飛行したこと、③副操縦士は2,400ftを下回ったことを確認したが経験が非常に浅く、相手がベテランであったため降下中止を指示できなかったことが明らかとなった。
つまり、ルッツ機長は分厚い雲の中にもかかわらず計器を一切確認せずに長年の勘とこの先に絶対滑走路があるという謎の自信だけで操縦をしていた訳である。そして彼の経歴が徹底的に調査されることになったのだが、そこでもとんでもない経歴が明らかとなる。
長いだけで誇れるものではない経歴
This is a true career. It is based on the official final report, that refers to eyewitness acounts. これは実際の経歴であり、 公式の最終事故調査報告書[1]、参照された 関係者の証言を元に構成しています。 ※但し、編集者の英語力が低いため誤訳がある可能性があります。追記・修正等お待ちしております。 |
年月日 | 年齢 | 内 容 |
1944年 | 0 | 誕生。 |
1955年 | 11 | 小学校卒業。成績優秀により進学校に入学。 |
1957年 | 13 | 中学校中退。つまり彼の最終学歴は小学校卒業である。 その後整備工見習いとなり、64年まで勤める。 |
1961年 | 17 | 軍の航空学校の試験に一次試験で落ちる。(一回目) |
1963年 | 19 | 上の航空学校の入学試験再受験を要望するが、 スイス空軍航空医学研究所が「お前小卒じゃん」と気づき、 今度は一次試験にすら進めず学力不足により却下される(二回目) |
1963年8月17日 | 〃 | グライダーパイロット免許取得 |
1964年2月19日 | 20 | 個人飛行免許取得 |
1965年 | 21 | 上の航空学校への出願を懲りずにするが学力不足により再び却下される(三回目) |
1966年4月12日 | 22 | 曲技飛行免許取得 |
1966年8月16日 | 〃 | 商用飛行免許取得 |
1967年1月31日 | 23 | 66年春にプロペラ機の飛行教官適性試験に合格した後、 半年間の教育訓練を受け個人飛行の飛行教官になる。(ただし有視界飛行に限る) 70年までに2000時間弱の飛行経験を積む。 |
1969年7月10日 | 25 | 計器飛行証明(免許)を取得。実は3年前の66年から訓練は始めていたものの 67年から69年にかけて、なんと複数回も試験に落ち 試験官からも「航法装置の理解不足と誤用多すぎ!」と文句を言われる。 3年経った今回ようやく試験をパス。成績評価は"平均"。 その後クロスエアに入社するまで、セスナを使ってチャーター便を運航していた。 |
1972年 | 28 | こんなに試験に落ちたにも関わらず、計器飛行の教官養成コースに入学。 修了後、墜落事故を起こすまでスイスでクロスエア以外のパイロットにも指導を行っていた。 |
1969年 | 1979年 |
25 | 35 |
定期的な計器飛行試験をおおむね成績"平均"でパス。 ただし、チェックリストの不使用と操作手順の間違い、 航法装置の不適切な使用などはこの時にも試験官に突っ込まれている。 おいおい大丈夫か。 |
1979年4月5日 | 35 | 1月にクロスエアのパイロット募集に応募、今までの小型機で培った飛行時間4,490時間を引っさげて、当時クロスエアで使われていた機材(※プロペラ機)の操縦試験に合格。ただし、成績は"平均~平均以下" どうして合格できた。 |
1979年9月1日 | 〃 | どういうわけか、不可解なことにクロスエアが彼をパイロットとして採用。正社員になる。 会社が彼の適性チェックをしたという文章は存在しない\(^o^)/ |
1981年春 | 37 | 機長に昇進。同時に、飛行教官・ルートチェックパイロットにもなり、 さらには会社の副主任パイロットにまで昇進している。 |
1981年9月 | 〃 | ある飛行学校で教官として働き始める。 この二足のわらじ生活は墜落事故まで続き、事故前日も午前中は飛行学校で訓練飛行を行い、午後からクロスエアで定期便を運行していた。 彼は極度のシミュレータ嫌いで、訓練はほとんど実機で行っている。 なお、この飛行学校もクロスエアも、他社での飛行時間と休憩時間を把握していなかった。 |
1982年5月 | 38 | クロスエアを退社、フリーランスになるが、他の会社とは契約しなかったのかできなかったのか、結局クロスエアとのみ契約。 この際、クロスエアに飛行能力は"平均以上"と評価される。 誤植ではない。 |
1987年8月12日 | 43 | Saab340(※プロペラ機)の機種変更試験に合格。 |
1990年2月21日 | 46 | クロスエアで教官勤務中、Saab340型機(機体番号:HB-AHA)の教習飛行で地上にいる際、教習相手の副操縦士に「地上でランディングギアを間違って引いても自重がかかっている時は安全装置が働いて上がらないから安心しろ」とロックを解除、副操縦士にランディングギアを引かせた。 先生……それはセスナの話です……Saab340だとロックを解除した時点で安全装置が切れちゃうんです……3年前に機種変更した時勉強したのでは……? 結果ルッツは頭を打ち付け負傷、機体は地面に打ち付けられ全損するという事故になる。ルッツの他に負傷者がいなかったのが幸いだった。 しかしクロスエアからは教官としての契約を解除されただけでそれ以上の責任追及はされなかった。 なお前出の飛行学校ではその後も引き続き教官を続けている。 |
1991年6月25日 | 47 | 着陸前、ルートチェックに夢中になって管制官の速度管制を数分間無視しB747の後方乱気流に巻き込まれる。 そして今度はその後方乱気流対応に夢中になって着陸の最終進入チェックを忘れ客室乗務員を座らせずに立たせたまま着陸するという事案を起こす。 |
1991年末 | 〃 | さすがに事故・事案が重なりすぎたか、ライントレーニング(いわゆるOJT)担当から外される。 |
1992年9月22日 | 48 | 恐ろしいことに、計器飛行試験の試験官になる。 4年後の96年8月には、有視界飛行試験の試験官にもなっている。 |
1993年 | 1994年 |
49 | 50 |
ジェット機デビューをもくろみ、BAe-146(墜落事故機の前身機)への機種変更を3回に渡って願い出るが、様々な理由により却下される。 |
1995年12月 | 51 | 夜間、スイス・ルガーノ空港着陸時に通常(2000ft/min)の倍の降下率(4000ft/min)で降下。副操縦士がどうしてそんな急降下するのかと訪ねた所、ルッツは「これで着陸できるから安心しろ」との一点張り。 湖岸や山腹が見えるほど地表までかなりギリギリの高度まで下げてから夜間なのにほぼ有視界飛行でルガーノ空港へと着陸した。 この際、なんと対地接近警報装置(GPWS)等は全てOFFにしていたらしい。 この案件は墜落事故後、一緒に乗務した副操縦士からの証言で判明した。 |
1996年1月2日 | 52 | 会社からMD-80への機種変更を指示される。書類検査・適性試験は行われなった。 案の定コース開始直後からシミュレーター訓練で苦戦し、見かねた会社から2回の追加訓練が行われるがそれでも理解不足と判定されてしまい、あえなく養成解除(一回目)。ただし、数ヶ月に再受験できる条件付き。 会社は面倒くさかったのかルッツを何もせずSaab340の機長に戻し、養成解除になった原因も細かい所までは調べなかった。 |
1996年6月24日 | 〃 | MD-80への機種変更コースにリベンジ。今回も養成開始前に適性検査が行われなかった。 訓練開始後、またもデジタル航法装置の操作方法について適応能力が全く無いことが発覚し追加訓練が行われるも結局「手動制御が下手くそ・デジタル航法装置の操作も下手・問題への判断/対応も遅い」などと散々な評価が下されあえなく撃沈。(二回目) 9月1日からSaab340の機長に戻ったが、今回も詳細な調査等は行われなかった。 |
1999年3月21日 | 55 | アルプス遊覧飛行中、アルプス北側にあるスイスのシオンに着陸する予定で遊覧飛行していた所、飛行予定時間をオーバーして飛行していることに気づき、着陸の打ち合わせを行わず己の感覚のみで急いで見えていた空港に着陸しようとした。 ところがその空港は50km離れたアルプスの反対側(南側)、イタリアのアオスタ飛行場だったが山に無線電波が遮られシオン飛行場とは交信が出来ず、それに気付いた副操縦士が注意したのにこれを無視。 あわやアオスタ飛行場に無許可着陸しかけるが、最終アプローチに入ったときに、道路標識がイタリアのものだと乗客が指摘、ようやく間違いに気づき、再びアルプスの尾根を超えて今度こそ無事にシオンに着陸するという事案を起こす。 なお、このフライトは業務外でクロスエア従業員が企画し、会社の機材をチャーターして行ったもの。にも関わらず会社はこの事案を墜落事故まで把握していなかった。 また、この時ルッツは乗客にコックピットへの立ち入りを許しており、飛行ルートについて延々と喋っていた。 |
1999年~ | 〃 | 飛行免許制度が改定、飛行教官は定期的な技能チェックが必要になる。 飛行学校の教官達もシミュレータを使ってチェックを受けたが、ルッツは1人「嫌だ! シミュレータは信用できない!」と実機でチェックを受けている。 これ以外でも彼は、複雑な技術やシステムに拒否反応を示し、使いたがらない傾向があった。 |
2000年4月28日 | 56 | 飛行学校で、計器飛行の訓練中だったステファン・ローラー(墜落事故の副操縦士)の飛行教官になり、2回の訓練飛行を行う。 他の副操縦士たちの証言によると、ルッツは静寂と孤独を好み、定時運航(特に最終運航の到着時間)を重視し、時々操縦手順や意思決定に副操縦士を参加させない、いわゆるワンマン運航をすることがあった。 副操縦士たちも、何もさせてもらえないと感じることはあったが、「経験豊富なパイロットだから」と合理化していた。 |
2001年5月6日 | 57 | Saab340が将来的に廃止されることが決まり、65歳の定年まで飛びたいルッツは懲りずにMD-80への機種変更申請を出すも、もうパイロットは揃っていたので会社に却下される。(三回目) 代わりに会社はAvro RJ 85/100(墜落事故機)の機種変更コースを受けさせた。決定理由は責任者曰く「この機種は比較的簡単だから」とのこと。 今回も事前適性検査は行われなかった上、指導教官もすでにルッツが2度もMD-80の試験に落ちていることを知らなかった。 今度はしっかりとコースを修了したものの、事故のちょうど一ヶ月前に行われた10月24日の最終チェックにはルッツに対する否定的な文章等は一切載っておらず、ミスの指摘も、改善事項も挙げられなかった。 |
2001年11月24日 | 57 | クロスエア3597便墜落事故を引き起こし死亡。 |
2011年 | - | 事故から10年後、メーデー!:航空機事故の真実と真相 シーズン8第1話「COCKPIT FAILURE」に取り上げられ、番組の毒舌ナレーターと出演した証言者から痛烈な批判を食らう。 |
長けりゃいいってもんじゃない。
毒舌ナレーターに散々にこき下ろされる
このひどすぎる経歴とお粗末な事故原因を見た、「メーデー!:航空機事故の真実と真相」でおなじみの毒舌ナレーター、及び当番組に出演した事故調査官:ジャン・オベルニー(Jean Overney)と航空コンサルタント:ハンス=ピーター・グラフ(Hans-Peter Graf)などから"無能とも言える"と痛烈な批判を食らう。
番組の序盤から終盤、締めにかけての変わりようがすごいのでここにその一部を取り上げる。
(ナレーターはN、オベルニーはO、グラフはGで表記する/なお、番組内ではクロスエアは全てクロス航空として取り上げられている)
序盤
N この日の機長は、ハンス・ウルリッヒ・ルッツ。
勤続22年を超えるベテランで、飛行教官だった経験もあります。
中盤
O このルッツ機長の判断ミス(視界の悪い28番滑走路に強行着陸しようとしたこと)に気づいた時、私達は彼はいったいどうしてそんな間違いをしたのかと思いました。
これは飛行教官まで務めたことがあるベテランパイロットにしては、まったく初歩的な間違いだったと言えたからです。N そしてオベルニーは、この判断ミスを説明する手がかりが
ルッツ(突然の呼び捨て/1回目)の長いキャリアの中に隠されているのではないかと感じ始めます。
終盤(3分間に渡る怒涛の罵倒ラッシュ)
N ルッツ機長が一連の破滅的な操縦ミスを犯し3597便を墜落させて、24人の命を奪ったことが明らかになったのです。そこで調査チームは墜落に結びつくようなミスを犯した訳が、機長の長い経歴の中に隠されていないかどうか詳しく調べることにしました。
すると、彼は要注意人物でした。N ルッツ(突然の呼び捨て/2回目)は、17歳で飛行学校に入学を申請しますが学力不足を理由に3度も却下され、ようやく20歳で自家用機の免許を取得。その後プロのライセンス取得を目指しますが航法装置の理解不足と誤用により、何度も試験に落ちてしまいます。
ルッツの経歴は長いだけで、誇れるものではなかったのです。G 飛行経験や飛行時間の長さは、操縦能力の高さの証明にはなりません。 N ところが平均以下の飛行能力にも関わらず、1979年にどういうわけかクロス航空が彼を雇います。 G その後も彼は、チェックリストや手順に従わない、あるいは航法装置を誤用したなどと何度も指摘されていました。つまり………
(長い沈黙(;´・ω・)ウーン……)
彼は是非とも欲しい人材ではないはずですが、不可解なことにクロス航空は彼を機長として雇い、そして彼に操縦させ続けたんです。N しかし、ルッツの能力の限界はクロス航空でも露呈します。
例えば、スイス・アルプスを観光飛行で飛んだときもナビゲーションを間違えイタリアに行ってしまいました。それどころか、乗客がイタリア語の道路標識を見つけるまで間違いに気づきませんでした。
まだ地上にいる間に不注意にもランディングギアを引き、150万ドルの機体を壊したことさえもあります。
これらのミスにより、教官の職を解いたもののクロス航空はルッツに旅客機を操縦させ続けたのです。G 私もパイロットの能力評価をしますが、
私なら彼の推薦状は絶対に書いたりしませんね┐(´д`)┌ヤレヤレN なぜクロス航空は、"無能"とも言えるルッツをパイロットとして雇い続けたのでしょうか。
締め
ここまでご覧の通りルッツ機長は相当な問題を抱えているパイロットで、ナレーションやグラフが触れている通り、何故クロスエアは機材1機をぶち壊されてさえいるのにルッツ機長を雇い続けたのかという疑問が残る。
それは1978年のアメリカでの規制緩和の後、80年代より始まったリージョナルジェットブームによって事故当日まで同社が急成長していてパイロット確保に苦労していたからである。
実際にクロスエアはこの3597便墜落事故の前年にも急いで雇った東欧出身パイロットの英語力不足を原因としたクロスエア498便墜落事故を引き起こしている。(ただしこちらの事故のパイロットはどこかのルッツ機長とは違って無能ではない)
そして、最後の締めでもルッツ機長は"標準以下"として痛烈に批判されてる。
G 当時パイロットの確保に必死だった同社は、たとえその経歴に疑問符が沢山ついていても
ルッツを解雇するという決定は下しようがなかったんです。N しかし2001年11月24日、ツケが回ってきます。それは、24人の命という大きな代償でした。
事故調査調査書が出された後、大改革が断行されます。
スイスの航空当局は、クロス航空にパイロットを監督する人員の増強を命じ、
更に他の航空会社についてもルッツのような標準以下のパイロットの洗い出しを実施させます。
事故後
事故から半年後、クロスエアはもともと経営困難に陥っていた親会社「スイス航空」を吸収合併する形で2002年3月31日に「スイス・インターナショナル・エアラインズ」として再出発している。その後航空死亡事故はこのクロスエア3597便墜落事故を最後に一件も起こしておらず、2019年には「世界で最も安全な航空会社TOP20」[2]に選ばれている。
一方ルッツ機長は2011年にメーデー!で取り上げられた後、同シリーズの中でも特にひどい批判を番組内で受けたことからエールフランス447便墜落事故を引き起こしたボナン副操縦士、世界最悪の航空事故であるテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故を引き起こしたザンテン機長らと並んで無能パイロットの代名詞としてメーデー民に取り上げられるようになってしまった。
しかし近年ではLAPA航空3142便離陸失敗事故のとんでもパイロットや、近年の乗務前アルコール検査で引っかかりまくる機長達など、彼らをも上回るモンスターパイロットが出現しつつある。(最もLAPA航空の事故は当事故の2年前に発生しているが)
各航空会社には上記のような事故を2度と起こさないよう、パイロットの厳正な選考と養成を期待したい。
関連動画
大人の事情により存在しません。
関連項目
- メーデー!:航空機事故の真実と真相
- フィクションじゃないのかよ!騙された!(メーデー!視聴に必須の用語集)
- エールフランス447便墜落事故(ボナン)
- LAPA航空3142便離陸失敗事故
- ヒゲクマ機長
- (同事故に類似した事故、大韓航空801便墜落事故の機長を演じた俳優。
ただしこちらは機械の不具合など情状酌量できる点も多い)
- (同事故に類似した事故、大韓航空801便墜落事故の機長を演じた俳優。
- ルッツ
- 毒舌ナレーター
- 無能
脚注
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