みにくいアヒルの子の定理とは、純粋に客観的な立場からはどんなものを比較しても同程度に似ているとしか言えない、という定理である。
概要
童話『みにくいアヒルの子』の話は一度くらい読んだことがあるだろう。アヒルの群れの中に一羽だけ白鳥の雛が紛れ込むが、白鳥の雛はアヒルより大きく羽も灰色で、可愛らしいアヒルの雛とは大違い……というアレ。
実際人間の目から見ても白鳥の雛が混ざっていれば一目瞭然なのだが、では具体的にアヒルの雛と白鳥の雛は一体どれぐらい異なっているといえるのだろうか?
この世の全ては似たようなもの?
まず両方共明らかに脊椎動物である。陸棲で羽が生えており、眼は二つ、クチバシがあるようだ。二本足で歩行し、鳴き声でコミュニケーションをとることができる。重量は一円玉より重いが、教会ほど重くない。ナメクジより素早く動くが新幹線には遠く及ばない。口からビームはなし。石化能力もなし。……あれ、なんか同じようにしか見えなくない?
うん、言いたいことは分かる。「色も大きさも全然違うじゃねーか!」とこういうことだ。だが、今考えているのは客観的な立場から見た比較である。例えば地球生命には縁もゆかりもないアンドロメダ銀河からやってきた無機生命体がこの二羽を比較したとしたら?ひょっとすると色や大きさの違いが分からず「何か似たような動くタンパク質がいるな〜」ぐらいにしか思わないなんてことがありうる。それどころか、鳥と人間の区別が付くかすら怪しいかもしれない。
以上のことは数学的に証明できる。2つのものの比較とは、両者に何らかの観点を持ち込んでそれぞれの相違点を数え上げていくということである。比較観点は無限に存在しうるが、もしその中のどれを重視するかのバイアスが一切なければ、ほとんどの観点はどちらに対しても同じ結果を出す。言い換えれば、2つのものはそれが何であるかにかかわらずほとんど一緒なのである。
違いが分かる男のアヒルと白鳥
もちろん人間の日常的感覚から言えばアヒルと白鳥の区別は明白に可能である。ただし、それは純粋に客観的な視点ではありえないという点に注意しておく必要がある。
我々は黄色と灰色の違いが十分に大きな差で、工場で量産されるポリバケツの個体差より有意であることを知っている。アヒルの雛同士でも厳密に同じ大きさのものは存在しないが、アヒル同士の個体差よりは白鳥の雛との差が有意に大きいことを知っている。つまり、人間にとって両者の区別が一目瞭然である理由は、どこを比較すれば2つのものが別物なのかを先に決めて掛かっているから、ということなのである。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- なし
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