安藤統男単語

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安藤統男あんどう もとお)とは、元プロ野球選手である。

概要

1939年4月8日生まれ。茨城県土浦市出身。生まれは兵庫県西宮市だが、父親の転勤で幼少期に土浦市に転居している。

第一高等学校に進学。3年時には投手も兼ねるショートとして夏の甲子園大会に出場したが、高木守道擁する県立岐阜商業高校に敗れている。

卒業後、慶應義塾大学へ進学。内野レギュラーに定着し、4年時には将を任され、在学中2度ベストナインに選出されるなど、チームの中心選手として活躍。

1962年阪神タイガースへ入団。

入団後、その守備は高く評価されたものの、吉田義男鎌田実といった守備の名手が在籍していたため、内野の守備固めやユーティリティプレイヤーとしての起用が中心であった。

1965年代打サヨナラ安打を3度記録。この記録現在でもNPB記録となっている。同年は打率.229、3本塁打、17打点マークした。

1967年からは出場機会をやや減らし、1968年にはシーズン序盤に左足アキレス腱を断裂、これが転機となった。復帰後打撃時に痛む足をかばうように王貞治を参考に左足を高く上げる一本足打法打法を変更し打撃開眼

1969年シーズン途中から2番セカンドの座を奪取。打率.244、9本塁打、21打点マークした。

1970年、開幕からレギュラーとして出場し、には監督推薦で初めてオールスターゲームにも出場。最終的には初めて規定打席に到達し、王貞治に次ぐセ・リーグ2位打率.294マークした他、10本塁打、30打点セ・リーグ最多の29犠打記録し、ベストナインにも選出された。

レギュラーの座を確かなものにしたかに思われたが、翌1971年からは再び出場機会が減少。1972年に85試合に出場たが、1973年は36試合の出場にとどまり、同年限りで現役を引退

引退後、阪神に残り、守備コーチ二軍監督を務め、掛布雅之らを猛練習で育て上げた。

1982年阪神の一軍監督に就任。1年は首位から4.5ゲーム差の3位と優勝争いに絡んだが、翌1983年は4位に終わり、メディアから退任論が乱れ飛んだが続投。しかし、1984年チームを浮上させることは出来ず4位に終わり、シーズン終了後退任。

阪神退団後、解説者評論家としての活動を経てヤクルトスワローズの一軍作戦コーチを務めた。

ヤクルト退団後、再び解説者評論家として活動。この他、阪神OB会長2009年まで長らく務めた。

現在野球評論活動に専念している。

人物・エピソード

堅実な守備と内外野どこでも守れるユーティリティ性で活躍した名脇役。本人く一番得意な守備位置はセカンドであったという。

一本足打法は一本足打法の生みのである荒川博から直々にコツを導してもらったものである。

監督としてはでありながらも人の話を聞くを持ち、メディアファンとの関係性を重視し、番記者との雑談野球談義も積極的に行っていた。また、野村収山内新一ら旬を過ぎたベテラン選手を獲得し起用することも多かった。

通算成績

打撃成績

通算:12年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 922 2327 2064 223 457 33 138 56 98 5 134 26 285 52 .221 .277

監督成績

通算:3年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 388 178 189 21 .485 Aクラス1回、Bクラス2回

獲得タイトル・記録

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安藤統男

1 ななしのよっしん
2023/09/04(月) 16:19:11 ID: PzaTxsn2Pi
1983年加入の野村収は12勝11敗と復活
二匹ドジョウを狙って翌年加入した山内新一
7勝9敗と前年よりは活躍したものの・・・。
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