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高木守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日-2020年1月17日)とは、「普通です」2代目ミスタードラゴンズ(初代は西沢道夫、3代目は立浪和義)である。1992年から1995年途中にかけて、また2012年より2013年にかけて中日ドラゴンズ監督を務めた。
概要
OB(故人) | |
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高木守道 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県岐阜市 |
生年月日 | 1941年7月17日 |
没年月日 | 2020年1月17日 |
身長 体重 |
174cm 72kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 二塁手 |
プロ入り | 1960年 |
引退 | 1980年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
県岐阜商業高校から、1960年に中日ドラゴンズに入団。背番号1になった4年目の1963年から二塁手のレギュラーを獲得し、同年盗塁王に輝く。以降不動の二塁レギュラーとして活躍し、盗塁王3回、ベストナイン7回(二塁手史上最多)、ダイヤモンドグラブ(現在のゴールデングラブ)3回などのタイトルを獲得。
1974年、巨人のV10を阻止するリーグ優勝に貢献し、日本シリーズ敢闘賞を受賞。1977年には通算2000本安打を達成。1980年に引退するまで21年間中日一筋でプレーし、数多くの球団記録を作った。背番号1は永久欠番になる予定だったが、本人が辞退したそうである。
正確無比なバックトスや変幻自在のポジショニングなど、二塁の守備力に関してはプロ野球史上屈指と言われるほどの名手であり、本人も守備には絶対の自信を持っていた。それを裏付ける逸話として、センター前への当たりをダイビングで弾いたプレーで「前に落とせ」と監督に叱責され、最善を尽くしたプレーで叱責されたことに激怒して試合中に帰宅してしまったというエピソードがある。
またシーズン10~20本の本塁打を放つパンチ力もあり、史上初の「200本塁打・200犠打」という記録も持っている。
現役晩年から選手兼任コーチを務め、引退後はコーチ、二軍監督、ヘッドコーチを経て、1986年のシーズン途中から監督代行として指揮をとった。その後解説者となるが、1992年から星野仙一の後任として中日監督に就任。
監督初年度は大混戦のシーズンで借金10ながら最下位。2年目は後半戦でヤクルトを猛追するも2位。3年目の1994年は巨人と優勝争いを繰り広げ、伝説の10.8決戦に敗れ2位。4年目の1995年、成績不振によりシーズン中で辞任した(その後、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任するもまたもや解任され、シーズン終了までは島野育夫二軍監督が監督代行を務め、翌1996年からは再び星野仙一が指揮を執っている)。この年、最後に指揮をとった試合で退場処分を受けている。
監督辞任後は再びCBCの野球解説者・中日新聞の野球評論家として活動。サンデードラゴンズの名物コーナー「高木チェック」では、一見ファインプレーに見えるプレーでも、「自分でもできそうなものはファインプレーとは認めない」というポリシーから「普通です」と判定するのが定番になっている(「普通です」の項も参照)。
2012年から、落合博満の後任として再び中日ドラゴンズ監督に就任。同時に球団はスローガン「ジョイナス」のもと、落合監督時代に減少した観客動員数回復のためファン獲得重視の運営方針に切り替えることになり、「ジョイナス」はしばしば高木自体を指す呼称として使われるようになる。
初年度こそリーグ2位、クライマックスシリーズでもあと1勝で日本シリーズ進出という成績を残したものの、翌年2013年にはセ・リーグ全球団に負け越し4位と低迷。同年契約期間満了で辞任した。
ちなみに、『海賊戦隊ゴーカイジャー』のゴーカイブルー、ジョー・ギブケンのモデルは高木である。名前も高木の出身校である県岐阜商から。メイン脚本が中日の大ファンの荒川稔久だから仕方ないね。
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