小鶴誠とは、プロ野球選手(外野手、内野手)である。右投げ右打ち。
1950年に記録した161打点・143得点・376塁打はNPBシーズン記録である。
経歴
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第二次世界大戦の最中、当時の八幡製鉄所は軍需工場で、機密保持のために他社への転職が認められていなかったため、「大学に進学したい」と偽って退社、1942年に飯塚誠という偽名を登録名にして名古屋軍に入団。1年目からレギュラーとして活躍した。1943年に海軍兵として出征し、中国で終戦を迎えた。
戦後、1946年に中部日本軍に復帰。しかし、1948年に球団代表の赤嶺昌志と中部日本新聞社との対立によって赤嶺が辞任(いわゆる『赤嶺旋風』)。それを追う形で小鶴も退団し、急映フライヤーズに移籍した。
1949年に大映スターズに移籍。飛びやすいラビットボールの導入もあり、打率.361で首位打者、ベストナインに輝く。
プロ野球がセパに分裂した1950年には、赤嶺の斡旋でセ・リーグの松竹ロビンスに移籍し、『水爆打線』と呼ばれた強力打線の中心を担った。打率.355・51本塁打・161打点・28盗塁で本塁打・打点の2冠、シーズンMVP、ベストナインを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献。しかし、シーズン終盤に椎間板ヘルニアを患い、日本シリーズでは活躍できなかった。1951年からはラビットボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。
1953年より松竹ロビンスが大洋ホエールズと合併して消滅することとなるが、小鶴は合併球団には残らず、広島カープに移籍することとなった(カープも経営難によりホエールズとの合併交渉を進めていたが、条件で折り合わず、単独で存続することとなった)。ファンはスター選手である小鶴を熱狂的に迎えたという。自己最多の33盗塁を記録し、人気投票1位でオールスターゲームにも出場。1958年に現役を引退。その後は国鉄スワローズ、阪神タイガースのコーチを務めた。球界から離れた後はビル管理会社経営をしていた。
人物
打撃においてはもちろんのこと、通算240盗塁を記録した俊足や、強肩を活かした守備にも高い評価を得ていた。美しい打撃フォームと、その面長で鼻筋の通った風貌から『和製ディマジオ』と呼ばれ、後に来日したディマジオと対面、並んで写真に収まっている。
小柄で腕力のない選手だったが、松竹ロビンスに在籍時に元ゴルファーでコーチだった新田恭一の指導のもと、『ゴルフスイング打法』を習得。これは低い構えから腰の回転のよる遠心力を利用するダウンスイングで、当時の腕力のみでボールを飛ばす選手が多いプロ野球では新鮮だった。この新打法をによって日本プロ野球初50本塁打を放った小鶴は「ボールが止まって見えた」とも豪語していた。しかし、当時所属していた松竹ロビンスは弱小チームでこれでは話題にならないと判断した報知新聞記者がこの発言を川上哲治のものと捏造して記事にしてしまい、後世にも川上の名言として定着している。
球界を離れた後も、還暦までバッティングセンターに通い続け、バッティングを追求し続けた。
通算成績
通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1655 | 6649 | 6141 | 909 | 1717 | 230 | 923 | 240 | 17 | 18 | 761 | 10 | 741 | 108 | .280 | .359 |
関連動画
関連項目
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