梶岡忠義単語

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梶岡忠義(かじおか ただよし)とは、元プロ野球選手である。故人

概要

1920年9月26日生まれ。大阪府大阪市出身。

成器商業学校卒業後、専修大学に進学。エースで4番として活躍し、チームの東都リーグ6連覇に大きく貢献。卒業前には阪神から誘いがあり、本人も入団の意思があったものの、学徒動員のため満州に渡った。

終戦後、1946年に帰し、中央工業の野球部に入部。梶の活躍で強チームを破り、南海ホークスから誘われたが、過去に勧誘された阪神に義理を感じ自ら電話で連絡を取り、1947年大阪タイガースに入団した。

1年から先発として活躍し、22勝8敗、防御率1.92の活躍でチームリーグ優勝に貢献。22勝はエース若林忠志の26勝に次ぐ数字であった。

1948年は26勝17敗、防御率2.54の成績に加え、リーグ最多の35完投先発投手としてフル回転8月南海戦ではノーヒットノーランを達成している。

かしこれまでの2年間の疲労から肩を痛め、1949年は13勝10敗と成績が低迷。シーズンオフ別府温泉での療養にあてた。このオフには2リーグ分立に伴い、力選手が大量にパ・リーグへ移籍したが、梶は残留した。

1950年からは技巧に転身。この年12勝、翌年1951年は13勝とまずまずの成績を残す。

1952年、技巧スタイルがハマったのか、21勝8敗、防御率1.71の成績を残し、最優秀防御率タイトルを獲得。またこの年通算100勝を達成した。

1953年は16勝13敗の成績を残したが、1954年は8勝11敗と勝ち恵まれなかった。

1955年、0勝に終わりこの年限りで現役を引退

引退後は二軍投手コーチを務めた。阪神退団後は阪神OB会会長を務めた時期もあった。

2003年3月23日心不全のため死去。享年82歳。

人物・エピソード

闘志を前面に押し出しストレートでグイグイ通していくパワーピッチャー。内をえぐるシュート武器としていた。

肩を痛め、以前のような直球を投げられなくなってからは、アウトローへのカーブなどを駆使して打ち取る技巧の投球スタイルに転身した。

ダブルエースであった藤村隆男に対して強いライバル心を持っていた。

通算成績

投手成績

通算:9年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 299 140 21 131 85 --- --- .606 1920.0 567 652 719 598 2.80

獲得タイトル・記録

関連項目

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