石橋忠義(?~?)とは、御一家石橋氏嫡流のうち最後に存在が確認できる人物である。
ここまでのあらすじ
石橋氏とは足利泰氏の庶長子(もともとは名越流北条氏から来た妻との間に生まれた嫡子だったのだが、あとから得宗流と婚姻関係を結び庶子になった)で、尾張足利氏と呼ばれた斯波氏のさらに庶長子である。室町時代初期には斯波氏に従って石橋和義が活躍。足利尊氏が九州から再起した際には備前の防衛を任され、山陽方面から畿内へ進撃し武功を挙げた。
その結果伯耆、備前、若狭の守護、さらには引付頭人、評定衆筆頭といった高位役職を歴任することになったのである。
だが、しかしである。若狭の守護職をめぐって本家の斯波氏と対立し、斯波高経との政争に敗れすべての官職を失ってしまったのである。
しかし話はここで終わらない。斯波高経もまた政争に敗れ失脚。斯波氏の分家でありながら細川派になっていたこともあり、足利義詮によって奥州総大将に息子の石橋棟義が任命され、1370年ごろまでには吉良氏と斯波氏、さらには畠山氏や石塔氏といった足利一門が争う奥州に親子そろって派遣されたのである。彼ら父子の活動は1386年ごろまで確認でき、当初は斯波氏のサポートとして入ってきたにもかかわらず、吉良・石塔・畠山氏が離脱した後は斯波氏と対立していったようだ。しかし、状況は彼らに不利で、彼らも塩松地方に移り、離脱していったようである。
その後京都では、足利義教の代に復権。石橋棟義の子である石橋満博、石橋祐義らが御一家として盛り立てられていく…のだが細川氏との関係や奥州とのパイプ役としては依然機能していたものの、京都では歌会などの儀礼面での活動がもっぱらであった。15世紀後半の石橋治義、石橋房義も足利義政の死去に参列したということが記されたのみである。
石橋氏の終焉
石橋氏は明応の政変後の混乱に応じて、吉良氏と同様領有していた尾張の戸田荘に下向していたようである。天文年間ごろには石橋房義の息子である石橋忠義の活動がみられる。『清州合戦期』では石橋義忠として登場する彼は、もうこのころすでに高齢だったようである。尾張国内での動乱に合わせて本願寺とやり取りをしている彼の姿が『天文日記』に見て取れる。
その彼が1560年ごろ、今川氏が桶狭間の合戦に敗れ衰退した後、尾張の斯波義銀、三河の吉良義昭と謀って謀反を起こそうとしたのである。しかしこの計画はあっさり露見し3人まとめて織田信長に尾張から追い出されてしまった。
その後長島一向一揆に斎藤龍興とともに協力するもついにその座には戻ることはできなかったのである。さらに吉良氏が礼法を守ったことによって高家として取り立てられていったのに対し、キリスト教に傾倒。石橋忠義は松永久秀の家臣となって以降「サンチョ」と名乗り、死ぬまでキリスト教徒としての生活を固く心掛けたのであった。
こうして「御一家」石橋氏は歴史の表舞台から消えてしまったのであった。
石橋氏のその後
七所社の社家吉田内記家が子孫を自称していたり、尾張源氏山田氏の子孫と称する山田正修が記した『山田家譜』に母系としてたびたび登場したりするものの、完全にその後は不明である。
関連項目
- 戦国時代の人物の一覧
- 御一家
- 斯波義銀
- 吉良義昭
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