足利義教(1394-1441)とは、室町足利幕府第六代将軍である(在任1428-1441)。
悪御所と呼ばれ、その治世は「万人恐怖」と称された。
概要
わかりやすく言えば、室町バージョンの織田信長。
「織田信長が最初から将軍だったら」と言ったら、感覚的に解りやすいかも知れない。
三代将軍・足利義満の五男として生を受けるも、9歳で僧籍に入った。
14歳で剃髪して義円の名を頂き、以後は後継者から外れて、比叡山延暦寺の貫主である「天台座主」の第153代に任ぜられた。「天台開闢以来の逸材」との呼び声も高く、最高位である「大僧正」の称号も頂いている。
ところが五代将軍・義量が病で亡くなり、後見を務めていた四代将軍・義持も後を追うように倒れてしまう。どうあっても次の将軍を選ばなければならない事態だったが、義持が頑なに後継者を指名せず、また幕府を実質差配していた実力者の思惑もあり、候補こそ上がるものの次期将軍が決まらないという事態が続いた。
話し合いの結果、「くじ引きによって次の将軍を決める」という前代未聞の方法が取られる。義持の死後、石清水八幡宮で行われたくじ引きの結果選ばれたのは義円であり、これによって還俗、名を義宣、後に義教と改めて六代将軍となった。
これらの経緯により、「籤引き将軍」の異名でも知られている。
ここまでは「運良く幕府の最高権力者になった人」なのだが、権力を手にした義教は、一転して強引かつ苛烈な政治手腕を振るい、室町幕府における将軍の発言力を強化していく事となる。
まずは管領をはじめとした守護大名の権力を抑えこもうと、奉公衆を置く、勘合貿易を行うなどして自身の権力基盤を強化。更には皇位継承問題や、かつて在籍した比叡山延暦寺にも介入した。
比叡山延暦寺は当時強大な独立勢力であったが、次期将軍を自負しながらも選ばれなかった鎌倉公方・足利持氏と共謀し、義教に呪詛を仕掛けたという理由で攻められた。しかし幕府の実力者らによる仲介もあって、一旦和議に落ち着く。
ところがその和議の席で、呼び出された使者の僧侶らの首を刎ねるよう、義教は命じた。この暴挙に抗議した僧侶24名が、延暦寺総本堂に火をつけ焼身自殺している。こうして不穏分子を一掃した義教は、親幕派の僧侶を派遣して寺の再建を命じた。
経緯や状況こそ違うものの、信長に先駆けること140年前に起きた事件である。
その後、足利持氏を攻めて滅ぼし(永享の乱)、更にその後、持氏の遺児による反乱を平定、捕らえた遺児らを暗殺している(結城合戦)。
他にも従わない大名に対しては容赦なく、一色義貫や土岐持頼などには刺客を送って誅殺した。
気性も激しく、酒の席で不始末をした侍女を殴り、髪をばっさり斬り落として無理矢理尼寺に追い出したという話も伝わっている。
ほかにも、儀式の最中にふと笑った大名を「自分の事を笑った」と激怒して所領を没収する、料理がまずいだの陰口を叩いただの些細な理由から容赦なく処断し、時には命さえ奪われたという話がある。
その治世は日本史上稀なる恐怖政治であり、皇族・伏見宮貞成親王はその様子を「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残しており、これが義教の代名詞として広く知られている。
そんな彼だったが、苛烈な処断が続いた事で自分も領地を没収されるのではないかと思った播磨の守護大名・赤松満祐によって暗殺された。
まずは「自邸の池に鴨の子が多数生まれて大層愛らしいので、是非御目にかけたい」とし、また前年の結城合戦の戦勝祝いを兼ねて「御成(おなり)」を願った。
僅かな家臣を連れて訪れた義教が猿楽を鑑賞し、宴もたけなわとなった所で、満祐は庭に馬を放たせた。馬を脱走させない為として門を閉めたのを合図に、かねて控えていた手の者が一斉に襲い掛かり、義教の首を刎ね、家臣達の多くも殺害された。
父である三代将軍・義満の時代に確立された幕府権力も、四代・義持、五代・義量によって守護大名の勢力が戻るに連れて衰えていった。
そんな幕府の権威立て直しを目指したが、皮肉にもその結果は、家臣に殺され、そしてそれが元で幕府のさらなる権威の失墜につながってしまった。
しかし、彼の行為が幕府の権力を再び確立したことも否定できない。実際に奉公衆などは明応の政変まで機能し続けた。
また、苛烈な側面ばかりがどうしても表に出てしまう一方、猿楽(能)の大成者と呼ばれる観世流二世・世阿弥の名跡を継いだ音阿弥元重を寵愛し、猿楽を世に広めその地位を向上させるなど、芸術について理解があったという一面もある。
後の時代の織田信長とはその苛烈さにおいて、また叡山攻撃や幕府を滅ばした点(義教は鎌倉府)、はたまた第六天魔王だったり、果ては家臣に殺されるところまでそっくりである。
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