花園天皇(1297~1348、在位1308~1318年)とは日本の95代天皇である。名は富仁。
概要
鎌倉時代末期の両統迭立時代の天皇である。かの後醍醐天皇の一つ前の天皇といえばわかりやすいか。
幼き頃より毎日読経・念仏を欠かさず女人もあまり近づけなかった清廉で文人肌の天皇だったと言われる。12歳で即位したため治世の前半は父である伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を敷いた。
治世中には鎌倉幕府は末期症状に陥っており山門の強訴への対応や異族蜂起に対して全国の社寺の異国降伏を祈祷させるなど社会不安が高まっていた。しかし花園は日野資朝と交わり学問に没頭していた。
後醍醐天皇に譲位後の花園は甥の量仁親王(後の光厳天皇)の養育に励んだ。後に花園は光厳に女を寝取られている。
誡太子書
後醍醐天皇に比べて知名度が低い花園天皇であるが、花園が量仁親王に宛てた「太子を誡むるの書」は覚えておいて損はない。今上天皇も誡太子書をたびたびとりあげ公共の場で紹介している。
今上天皇(当時は皇太孫)「花園天皇という天皇がおられるんですけれども……誡太子書(太子を誡〈いまし〉むるの書)と呼ばれているんですが、この中で花園天皇は、まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないということを説いておられるわけです。その言葉にも非常に深い感銘を覚えます」(昭和57年3月15日)
1489字と当時にあっては並外れた長文であり、その狙いは大乱の気配を感じ取った花園天皇が親王に対して、血統に驕ることなく徳を積むために学問をせよと勧めることにある。花園の死後、その予想は的中し、日本は南北朝時代へ突入する。
花園は「皇室は万世一系であり、血統が尊いゆえに天皇は能力(徳)がなくても構わない」という弛んだ姿勢を厳しく批判する。この批判は現代にも通じるものがあるだろう。
媚びへつらう愚か者たちは「我が国は皇胤一統(万世一系)であり、王朝が興亡する外国と違って徳がなくとも異姓簒奪の心配がない」というがそれは大きな間違いである。現実政治に現れていなくとも理屈は明らかだ。徳がないまま皇位を保とうとするのは岩の下に卵を置いたり、古い縄で谷を渡るようなものだ。中古以来、戦乱が続いており悲しいことだ。太子よ、過去の世の興廃をよく見定めてしっかり考えよ。
そうして花園は近いうちに起こりうるだろう大きな戦乱に備えるべく太子に強く学問を勧める。花園にとっての学問とは実用的でなければならないものであった。
学問はただ書物を諳んじ、詩を上手に作り、声高に議論を戦わせることではない。知識を備えてことが起こる前にそれを知り、さらにどうなるかを判断する。学問とはそういうものだ。
近頃は聖人の一言を聞いて勝手に自分の説を作っている学徒がいる。仁義忠孝の道も礼儀もわきまえない。彼らは儒教の根本を知らないのである。
書に接していると、昔の人にも会い、聖人とも親しく交わり、窓のそばにおいても遠い千里の世界が見え、ちょっとの時間でも何万年をも経験した気持ちになる。こんなに楽しいものはない。道を楽しむか、乱にあうか、この違いは大変なものだ。それを決めるのは太子自身である。
関連項目
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