芹沢鴨(1826~1863)とは、幕末に活躍した人物で、新選組の初期のメンバーである。
概要
水戸藩士で、壬生浪士組の局長を務め、近藤勇の派閥に粛清された派閥の首魁として創作物などではおなじみの人物。本名は下村継次。諱は光幹。
水戸藩士の芹沢家に生まれるが、神職の下村家に養子入りさせられる。しかし、神道無念流を極め、玉造勢(天狗連)として活動していった。この活動で水戸藩に捕縛されたほどであったが、徳川慶篤の命で釈放されている。文久3年(1863年)に同志を引き連れ、浪士組に参加し上京する。しかし、諸々の事件の結果、近藤勇と壬生浪士組を結成することとなった。しかし、乱行が過ぎた芹沢鴨の一派は疎まれ、8月の大和屋焼き討ち事件が御所近くだったことから、朝廷から会津にクレームが届き、会津藩も芹沢鴨の粛清を近藤勇に命じる。
かくして、9月16日に角屋の総会を退席すると、土方歳三に勧められて八木家本宅で酒盛りをし、愛人のお梅と同衾。そこに刺客が突撃し、逃げようとして転んだところを斬殺された。下手人は土方歳三と沖田総司だったという。なお、この事件の日は実は9月18日という証言もあって、いまだに確定していない。
芹沢鴨の一派は新見錦はすでに粛清されており、平山五郎は芹沢鴨とともに殺害。野口健司はしばらく勤務を続けていたものの切腹させられ、平間重助は隊から逃走。かくして、完全に壬生浪士組は近藤勇の派閥に掌握されたのであった。
関連項目
- 0
- 0pt