藤原兼家(ふじわらの かねいえ、929~990)とは、平安時代中期の貴族である。
概要
藤原師輔の三男。藤原道長の父で、「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母の夫としても知られる。
長兄・藤原伊尹の元で藤原摂関家の勢力を伸ばし、安和の変では兄・伊尹と共謀して源高明を失脚に追い込んだ。次兄・藤原兼通より昇進は早かったが、これが兼通の怒りを買い、長きにわたる兄弟の確執を生む。伊尹が亡くなると、時の帝・円融天皇は兄弟順を優先させて兼通を関白に任命する。兼通はこれまでの復讐とばかりに、兼家の昇進をことごとく阻んだ。宮中でも二人は露骨にいがみ合っていたと言われる。
やがて兼通が重病になったある日、近くを兼家の牛車が通りかかった。仲の悪い弟であっても、死の間際には心配して見舞いに来てくれたのかと喜ぶ兼通だったが、兼家は兼通の屋敷を素通りしてしまう。兼家は兄の病をこれ幸いに、円融天皇に昇進を打算する魂胆だった。怒り狂った兼通は病を押して、関白の後任をいとこの藤原頼忠(藤原公任の父)にするよう天皇に頼み、兼家の職を格下げした。これで力を使い果たしたのか、兼通は間もなく死亡するが、最後の最後で憎い兄にしてやられた兼家であった。
兼通と異なり、頼忠は兼家を冷遇せず右大臣に昇進させたが、兼家は密かに政権奪回の機会を窺っていた。彼は自分の娘・詮子が円融天皇との間に産んだ皇太子の懐仁親王を早く次の天皇にすることを熱望し、帝の花山天皇が目障りな存在になっていた。花山天皇が寵姫を病で失い悲嘆に暮れていることに目を付けた兼家は、子の道兼を通じて天皇に出家をそそのかし、花山天皇を騙して出家させることに成功させる。念願の孫を新帝・一条天皇として、その外祖父となった兼家は摂政・太政大臣に就任する。だがその4年後、兼家は病に倒れ、長男・藤原道隆の息女で孫の藤原定子が一条天皇に入内すると、関白に任じられるもすぐに辞退し、一家の繁栄を見届けてこの世を去った。
藤原道長による藤原摂関家の栄華の基盤を築き上げた兼家だが、お前ら本当に仲が悪いんだなと言わんばかりの兄・兼通との骨肉の争いに加え、「蜻蛉日記」で藤原道綱母からその浮気性をたびたび指摘されるなど、現在に至る後世のイメージはあまり芳しくないのが現状である。
関連動画
関連項目
- 藤原忠平(祖父)
- 藤原道隆 / 藤原道綱 / 藤原道兼 / 藤原道長(子)
- 藤原道綱母(妻)
- 藤原伊周 / 藤原隆家 / 藤原定子(孫)
- 藤原伊尹(兄)
- 藤原義孝 / 藤原斉信 / 藤原道信(甥)
- うた恋い。
- 伊藤栄次
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