鶴田浩二(1924年12月6日~1987年6月16日)とは戦後活躍した歌手・俳優である。本名は小野榮一。
概要
兵庫県西宮市で生まれ、静岡県浜松市で育つ。関西大学専門部商科に入学したその年に学徒出陣として徴兵され、終戦までを海軍航空隊で過ごす。その時の体験が後の人生に大きく影響した。
戦後は映画俳優、歌手として大人気となり、東映の任侠映画シリーズ、戦争映画などで主演を張り、歌手としても「傷だらけの人生」、「赤と黒のブルース」など多くのヒット曲を連発した。軍歌や戦時歌謡曲も歌っており、今もCDが売られている。
1987年、肺がんのため死去。葬儀には戦友や特攻隊員が駆けつけ、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。墓所は鎌倉霊園にあり、墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。
左手を左耳に添え、マイクに白いハンカチを巻いて歌う独特の歌唱スタイルで知られるが、左手を左耳に添えるのは薬の副作用で左耳の聴力が低下した後、映画で共演した田端義夫から受けたアドバイスによるもの。
趣味・人物像
自前の野球チームを率いるほど無類の野球好きで、若き日の山田康雄もそのチームの1人であった。
海軍航空隊では特攻機の整備をしており、多くの特攻隊員の二度と戻れない出撃を見送っていた。そのこともあり、戦後は「東条英機は切腹すべきだった」「特攻は外道の戦術」と公に批判していた。
作曲家の吉田正と親交が深く、「吉さん」「鶴さん」と呼びあうほどの仲であった。
しかし好き嫌いが激しく、屈折したプライドが原因の周囲との衝突、トラブルも絶えず、芸能界に親友と呼べる人は殆ど居なかった。特に仲の悪かった同業者は宇野重吉・三國連太郎・山城新伍など。
反面、引立役として若手の育成を手伝うことを厭わず、松方弘樹や梅宮辰夫などを公私にわたって可愛がっていた他『空の大怪獣ラドン』の撮影中、主演の佐原健二が大けがを負ったのにろくに休養させず、撮影を続行しようとしたのを知ると撮影所の事務所に怒鳴りこんだこともあった。
嫌いなものの一つに夕日を挙げている。これは幼少期の思い出が原因で、実の娘で女優の鶴田さやかも父親から聞いた少年期の思い出話にはほのぼのとしたものが一切なかったと語っている。
そんな経験もあってか寂しがりな一面もあり、誕生日には役者仲間を自宅に招いてバースデーパーティーを開いていたという。
特攻崩れの虚実
戦後、映画「雲ながるる果てに」で主演した後から自分は元特攻隊員であると称していた。しかし実際は先述の通り、整備兵として出撃していく特攻機を見送っていく立場であった。
特攻隊出身が嘘であることが戦友会に知られ、猛抗議も受けた。しかし鶴田は一切弁明することなく、ただ黙々と働き、巨額の私財を投じて戦没者の遺骨収集に尽力し、遺族会にも莫大な寄付金を寄せた。この活動が政府を動かし、後に大規模遺骨収集団の派遣に繋がった。映画スター・戦争経験者として各地で講演を行い、生涯を通じて亡き戦没者への熱い思いを貫いた。これらの行動にに戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として暖かく迎え入れた。
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