概要
雅楽の一「越天楽」を基とし、本来無詞である越天楽に七五調の歌詞を加えて唄う「(越天楽)今様」が筑前の武士の間で「筑前今様」として流行し、そこに後述の母里友信の逸話が付会して生まれた民謡である。
そのため、雅楽様の響きをもって唄われる。
後半の歌詞が武家の祝儀ではなく想夫恋からの連想で婚儀と解釈され、そのため現代では結婚式でも唄われることが多い。
歌詞
酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士
皇御国の武士は いかなる事をか勤むべし ただ身に持てる真心を 君と親とに尽くすまで
※駒…騎馬。元は子馬の転訛だが、さらに転じて成体も指すようになった。
※想夫恋…雅楽の一。男性(夫)へ恋慕する女性の情を表す。
黒田武士と日本号
この部分については、安土桃山時代の安芸~筑前(つまり九州北部)に伝わる、あるエピソードが元になっている。
安土桃山時代、信長死後実権を握った羽柴秀吉は「九州の役」を発布し、九州一帯を支配下に置くことに成功した。
後に秀吉が没し、関ヶ原の戦いにて徳川家康率いる東軍が勝利すると、安芸~備後50万石の藩主として福島正則が、筑前53万石の藩主として黒田長政(黒田孝高の子)が任命された。
さて、正則が安芸を統治している頃、正則の元に黒田家の使者として母里友信が遣わされた。友信は筑前黒田家の武士のうちでも「黒田二十四騎」「黒田八虎」に名を連ねるほどの猛将であり、また「フカ(サメ)」と評されるほどの酒豪としても評判であった。
この評判を耳にしていた正則は、使者として訪れた友信を屋敷に招き、酒を勧める。しかし友信は主君長政に「お主は使者である。面倒を起こさぬよう酒を勧められても呑むな」と釘を刺されていたため、「この三升の杯を干せば何でも褒美に取らす」と正則に懐柔されても尚断り続けた。
すると正則やその家臣が「黒田の武士は酒に弱い、黒田の八虎は酒に弱い」と友信を挑発し始めた。黒田の名まで貶められては退くわけにはいかず、ついに挑戦を受けて三升の杯に注がれた酒を一息に飲み干し、また何杯も飲み干してしまった。
友信は褒美の件も聞き逃さなかったため、杯を干した褒美としてかつての正則の主君秀吉公から賜った名槍「日本号」を所望する。
日本号といえばかつて皇室から正三位の位を叙位されたとされるほどの業物であり、皇室の御物であったものを足利義昭に下賜され、その後信長公と秀吉公の手に渡った日本一の名に恥じぬ名槍である。旧主とはいえ秀吉公から賜った家宝級の槍を所望されて面食らうも、「武士に二言はない」としてこれを褒美に取らせる。友信は槍を担ぐと筑前今様を唄いながら酔心地で帰っていったという。
この逸話によって黒田武士の面目は大いに施され、友信の活躍は「呑取」とも称された日本号と共に筑前民謡として残ったのである。
関連動画
関連項目
- 1
- 0pt