八戸浦クジラ事件 単語

ハチノヘウラクジラジケン

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八戸浦クジラ事件とは、明治時代青森県八戸で、捕鯨業者の藉に怒った漁民たちが引き起こした焼き討ち事件である。東洋捕鯨鮫事業所焼討事件exitくじら騒動、事件(鮫島事件ではない)とも。

概要

 1911年明治44年11月1日青森県(現:八戸市町)にあった東洋捕鯨株式会社事業所を(現:八戸市町)・白銀(現:八戸市白銀の漁民約1100人が襲い、打ちこわし・放火した事件。日本最大の漁民一であり、近代日本において環境汚染が原因となった事件としても足尾鉱事件と並び最初期のもののひとつである。

事件の背景

当時の八戸には白銀の3つの漁師があり、イワシ漁業で栄えていた。漁法はからの底引き網であったが、1891年(明治24年)に長谷川藤次郎exitが小による底引網を開発し、また絞粕圧搾機を改良して近代漁業の礎が築かれた。

当時、近代捕鯨確立していなかったが、寄(死んだり弱ったりして海岸に漂着したクジラ)を利用することはあった。漁師たちは恵比寿様として崇め、クジラが沿イワシを追い込んでくれると信じていた。

そんな中、産業発展の足がかりとしたい長谷川漁業組合理事の導で、捕鯨基地の誘致話が持ち上がる。

事件の経緯

1909年明治42年)、大日本捕鯨株式会社(後の東洋捕鯨)が捕鯨基地の申請を提出。漁師たちは捕鯨の解体場から出るの血や脂によってが汚れイワシが取れなくなる、という懸念から反対したが、長谷川の有力者が官と結託して強引に押し切ったのである。

果たして1911年捕鯨基地の操業が始まると解体で出た内臓はそのままに投げ捨てられ、八戸海岸は悪臭と残渣で見るも残な有様になった(近代捕鯨の初期には的ではあまり利用されていなかった)。捕鯨会社と誘致は毎旅館で芸者を揚げて宴会を開き、漁民たちの怒りを誘った。

さらに東洋捕鯨は設定されていた8月までの漁期を過ぎても捕鯨を続け、県はこれを黙認したため、白銀の漁民の怒りは頂点に達する。

11月1日白銀1000人余の漁民は3グループに分かれ、捕鯨基地をす。起した人々は蔵からふるまわれたをあおって気勢を上げ、行きがけの駄賃とばかりに白銀警察出所や石田旅館(誘致捕鯨会社関係者がよく宴会を開いていたため)を襲った。

捕鯨基地に到着した漁師たちはサーベルを抜いた警官の妨解剖で応戦する従業員を振り切り、解体場に乱入放火。恨みをらした漁民たちは凱歌を挙げた。帰りがけに長谷川ら誘致の邸宅と巡査出所を破壊して引き上げた。

漁民側は死者2名、負傷者10名の被害捕鯨業者側は職員14人、警官7人が負傷した。

決着

この事件で加担者40人が裁判にかけられ30名が懲役、6名が罰金の有罪判決が出るが、間もなく明治天皇の崩御により大赦が下された。その後の協議により捕鯨会社からは焼討ちに加わった漁業組合に対して補償が出たという。

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