加須屋武則 / 賀須屋武則 / 糟屋武則 / 真雄(?~?)とは、戦国時代の武将である。
賤ヶ岳七本槍の中で一番書けることに困る人。七本槍の中では播磨の出身であり、豊臣政権内ではおおよそ石田三成や大谷吉継らと同じ経歴をたどっていった。なお、Wikipediaでソースに多々挙げられている子孫本はまだ当たれてないので、あくまでも一次史料のみを使う。
従来は播磨に代々いた糟屋氏の系譜にあたるとされるが、豊臣秀吉からは完全に「賀須屋」→「加須屋」と呼ばれ、自分の家では「糟屋」を用いるなど、毛利/森と同じ問題を抱えているか、宇喜多/浮田のように使い分けているかは謎だが、公的には加須屋ということである。
この辺、多田暢久があくまでも憶測と断りつつも、以下のように想像している。つまり、他家の存在が、逼塞して既によくわからなくなった糟屋氏の名跡を継ぎ、そのため公的には漢字の違う加須屋を名乗っていた、ということである。
この根拠として挙がっているのが『兵庫県史』に収録されている因幡の加須屋家の文書である。永禄13年(1570年)に秋良と景隆という2人の人物が、糟屋の名跡を糟屋弥三郎という人物が継ぐことを認めているのである。ここで多田暢久は偽文書の可能性も認めつつも、この時期足利義昭・織田信長の連合軍が赤松義祐、赤松政秀の戦いに介入し、播磨に侵攻してきたことから、景隆を和田惟政に従軍していた山岡景隆と仮定して、以下のように結論付ける。つまり、播磨で関わった高砂城の梶原一族の誰かがこれらの中央軍と関わり名跡を継いだ(ので後に播磨の混乱時に織田方に残った)という新興勢力としたのだ。
とまあ、言った本人も仮定に仮定をを重ねたことは認めているので、あくまでも播磨出身だがぽっと出の何か、ということだけしかわからない存在であるようだ。
なお、後世この存在から旗本糟屋氏が成立したとされる。のだが、『寛永諸家系図伝』の時点ではその伝承はなく、『寛政重修諸家譜』に糟屋数政/糟屋武則の弟・糟屋相喜から続いていることになっているが、よく見ると糟屋相喜は今川義元の家臣であり、その父親の糟屋忠安も関東の三浦で戦死している。このため、おそらく七本槍の人物と同姓のためかこつけたのではないか、とされる。
この加須屋武則という存在は、池田家に伝わる『信長記』によると、まず羽柴秀吉は天正6年(1578年)に加古川城に入り、その後別所長治の反乱の際に加須屋武則の家も秀吉方となったため、秀吉の小姓になったとしている。つまり、この時点では黒田官兵衛と大体似たような存在であり、播磨の貴重な秀吉の味方の家の出身、ということであるらしい。
つづいて、彼は賤ヶ岳の戦いで華々しく一番槍を遂げる。なお、秀吉存命中の『柴田退治記』では一番槍は糟屋助右衛門尉を含めて9人であり、その後『太閤記』では豊臣秀長の家臣である櫻井左吉、死んだ石河兵助が取り除かれ7人になり、『豊鑑』ではまだ福島正則ではなく石河兵助がいるのだが、次第に今の有名な7人だけを賤ヶ岳七本槍とするようになったようだ(なお、一番槍の感状は、9人全員に出されている)。
とにかく、柴田勝家や織田信孝を滅亡させた一連の戦いを終えた時点で、福島正則以外の七本槍には3000石が与えられている(福島正則は5000石と突出しており、以後も一人だけ公家成大名になる等待遇がいい)。この時の所領は、会津藩に仕えた子孫によると、加古川周辺(『兵庫県史』加須屋家文書より)とのことである。
以後、福島正則は言うまでもなく、脇坂安治や加藤嘉明が大名に昇格していく中、加須屋武則は、片桐且元と同様に主に秀吉の蔵入地などを差配する、代官として活躍した。加須屋武則は若干加増して4000石程度だったものの、豊臣秀次や木下延俊らの万石以上の土地を任され、加藤光泰のような失点もなく、その重責を担ったのである。
この点に関しては、小田原征伐の時にも前線にいた木村隼人や加藤光泰らと異なる、加藤清正や加藤嘉明らと150人程度で豊臣秀吉の周辺を固めていた、という軍事力の少なさからも分かる。ただし、この間加藤清正や加藤嘉明らは順次大名となり、文禄の役の時には前線を担っていたのだが、加須屋武則は片桐且元と共に少ない手勢で後方任務をしていた。このことは、豊臣秀吉が朝鮮から明への侵攻を命じた書状に、後背地は加須屋武則、片桐且元、太田一吉、新庄直定らに任せて(侵攻を続けろ)というのがあるため、ほぼこの辺と同じ扱いだったのであろう。
ところが、豊臣秀次が切腹する、秀次事件が起こる。豊臣秀吉はこの裁定の後、文禄4年(1595年)に賤ヶ岳の戦いの功績と称して、片桐且元、加須屋武則の両名を大名にしたのである。つまり、この事件の混乱を鎮めるために、近い人間が抜擢された、ということなのかもしれない。
そして、おそらく中央集権派であったであろうことが容易に想像されるため、関ヶ原の戦いでは順当に西軍につき、敗れた。以後没落し、その後は諸説あるというかほぼ近世に作られた出どころの怪しい伝聞でしか残っていない。
案の定ソース不明の生没年が設定されており、別所氏家臣だったり幕臣になっていたりと経歴も捏造もされている。賤ヶ岳七本槍のイメージでほぼ脳筋の扱い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 12 | 政治 | 20 | 野望 | 14 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 142(A) | 智才 | 24(C) | 政才 | 40(C) | 魅力 | 70 | 野望 | 14 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 60 | 智謀 | 15 | 政治 | 31 | 野望 | 41 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 57 | 知略 | 33 | 政治 | 29 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 58 | 知略 | 30 | 政治 | 27 | 教養 | 25 | ||||||||
革新 | 統率 | 64 | 武勇 | 72 | 知略 | 34 | 政治 | 31 | ||||||||
天道 | 統率 | 64 | 武勇 | 72 | 知略 | 34 | 政治 | 31 | ||||||||
創造 | 統率 | 61 | 武勇 | 68 | 知略 | 40 | 政治 | 38 | ||||||||
大志 | 統率 | 59 | 武勇 | 67 | 知略 | 43 | 内政 | 39 | 外政 | 37 |
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最終更新:2024/04/25(木) 05:00
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