島田叡(しまだ・あきら 1901年12月25日~1945年6月26日?)は日本の官僚・政治家、沖縄の島守である。
兵庫県出身。第27代沖縄県知事(1945年1月12日~1945年6月26日)、官選知事である。
1945年1月、以前から親交があった牛島満沖縄軍司令官の推薦で、泉守紀沖縄県知事に代わる新知事就任を打診された。既に沖縄戦が確実な情勢で、職務を全うするなら殉職は間違いなかった。島田氏は「私が行かなかったら、誰かが行かなければならんでしょ。私が行きます。」と即答。「断」の一字を書き残し、妻子を置いていき沖縄県へ単身赴任した。この時から自決用の青酸カリも持ち歩いていたという。
元からの人脈を活用したこともあり、泉前知事と違い軍と協調。特に後に「県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の打電で知られる大田實少将との信頼関係は厚くなった。
一般県民と酒宴を共にするなど当時としては異例の交流を深める。沖縄文化に理解が深く、村芝居の復活を認めるなど県民の好評を得た。
以前から県庁で活躍していた荒井退造沖縄県警察部長を重用し、泉前知事の下では進まなかった疎開を推進。
沖縄県が食糧不足になることを見越して、制空権を連合軍に奪われているにもかかわらず台湾へ飛行機で飛び、450tの食糧輸送交渉を成功させる(輸送に成功したかどうかは諸説あり)。
4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸し、間もなく沖縄本島北部と連絡不能になった。島田知事は県庁を首里の地下壕へ移して政務を続けた。4月27日には沖縄本島南部の市町村会議を緊急で開く。5月に守備隊が首里を放棄し南部へ移動しようとすると、「住民が巻き添えになる」「南部撤退は愚策」と猛反対した。しかしこれはなおも抗戦を主張する牛島司令官に押し切られてしまった。
5月25日、壕を離れる前に内務相へ打電。
後になって軍から安全な知念半島へ住民を避難させよと連絡され島田知事は憤慨したという。
首里が放棄されると糸満にある轟の壕へ移動。
6月9日、壕で県庁解散命令を出す。その際、県職員達へは戦陣訓に反し玉砕・自決せず投降し生き延び沖縄再建へ尽くす事を勧めた。自身は投降を勧められても「君、一県の長官として、僕が生きて帰るわけにいくかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるのか知っているだろう。」と拒否し、摩文仁の丘にある軍司令部壕へ移った。
「僕ぐらい…県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ…」
6月26日、荒井警察部長を連れて壕を出たまま行方不明となった。遺体・遺品は見つかっていない。
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最終更新:2024/11/14(木) 12:00
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