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沖縄戦とは、太平洋戦争/大東亜戦争における沖縄を戦場にした日本軍と連合軍(ほとんどアメリカ軍、一部イギリス軍)の戦闘である。
この記事では、年を省略した日付は特に断りが無ければ1945年を指す。
狭義では1945年3月1日の沖縄爆撃、3月23日の沖縄爆撃、3月27日の慶良間諸島米軍上陸、4月1日の沖縄本島米軍上陸から6月23日の牛島満司令官自決によって沖縄の日本軍の組織的抵抗が終了した期間を指す。ただし、それ以前に起きた1944年8月22日の対馬丸撃沈や、1944年10月10日の沖縄大空襲(十・十空襲)を含めることも多く、降伏調印式は9月7日である。
沖縄戦のあまりの惨状は「鉄の暴風」「鉄の暴風雨」「ありったけの地獄を集めた」と言われるようになった。米国の原爆投下正当化論では沖縄戦の犠牲の多さを根拠の一つにしている。
なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「国内唯一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではない。現在は日本領でないが当時は日本領であった北海道の占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、また現在も日本領である東京都の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため「唯一の地上戦」という認識は必ずしも正確ではない。
1943年11月22日、エジプトの首都カイロに連合軍の首脳が集まって会談を行った。この時、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が対日戦の打ち合わせをし、インド洋と中部太平洋の二方面から協同攻撃を実施すると約束した。
しかし1944年に入ると連合軍の侵攻や作戦は比較的早く進んだため、カイロ会談で定めた計画に修正を加える必要が出てきた。再検討の結果、台湾を攻略して日本本土攻撃の足がかりにする「土手道作戦」が採用され、統合参謀本部は同年3月、チェスター・ニミッツ提督に1945年初頭を目途に実施できるよう準備を求めた。しかしバックナー陸軍中将は「太平洋で使用できる補給部隊と支援部隊が不足している」として作戦中止を進言。これに太平洋地域陸軍部隊司令ミラード・F・ハーモン中将と、参謀本部のアーネスト・J・キング元帥が同調。土手道作戦は中止となり、代わりに攻略目標となったのがルソンと硫黄島、そして沖縄であった。
沖縄本島は、連合軍にとっても魅力的な島であった。日本本土を目指すにはどうしても邪魔になるが、もし奪取に成功すれば日本本土の目と鼻の先で攻撃軍の訓練が可能できる優れた基地を得られる。また沖縄と本土の距離は短く、爆撃機を飛ばすには打ってつけの立地だった。おまけに艦隊の停泊が可能な中城湾と金武湾まで付いてくる。まさに喉から手が出るほど欲しい島だったのだ。
迎え撃つ日本側も沖縄の重要性は理解していた。1944年3月、帝國陸軍は沖縄防衛を担う第32軍を創設。中国大陸、朝鮮、日本本土から兵力がかき集められ、翌4月に沖縄本島と周辺の島々へ派遣された。あ号作戦に伴って内地からタウイタウイ泊地に向かう軍艦に兵や物資を載せ、緊急輸送を実施。まず最初に精鋭の第9師団が到着し、第32軍の中核に据えられた(しかし第9師団は後に生起したレイテの戦いに抽出され、その穴埋めはされなかった)。6月には九州で編成された独立混成第44旅団が沖縄へ派遣されたが、道中で米潜水艦の雷撃に遭い、4000名近くが戦死。生存者600名程度のみが目的地に到着する有様だった。損失を穴埋めすべく、独立混成第15連隊が空輸された。続いて沖縄に配備されたのは、満州に駐屯していた第24師団であった。訓練は充分に行われていたが未だ実戦は経験しておらず、また太平洋の島々の戦力を増強するために何度も戦力の抽出が行われていて、骨抜きとなっていた。それでも第24師団は第32軍の最大戦力で、本土から細々と増援が送られて沖縄戦までに定数を満たした。
1944年7月7日にサイパン島守備隊が玉砕すると南西諸島での戦闘が確実となってきた。
日本政府は緊急閣議を開き、南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開を決定し泉守紀沖縄県知事へ指示した。戦闘能力及び労働力がある青壮年、警防団、医師の疎開は原則として認めなかった。
もっとも泉知事自身が疎開に消極的だったこと、複数の飛行場建設に県民が動員され人手不足だったこと、家族が離ればなれになること、内地での生活することの不安があること、日本が南西諸島の制海権を失っていたことは沖縄県民でも知れ渡っており海上の方が危険だと疎開を躊躇う者が多かったことにより疎開はあまり進まなかった。
そうした最中に1944年8月22日に九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」がトカラ列島悪石島付近で米軍魚雷により撃沈してしまう。乗船者1661人のうち、1484人が死亡した。「対馬丸」撃沈は沖縄県民を含む日本国民には秘密にされた。後の10・10空襲で沖縄県にいても危険だと実感した県民が増え、以降は疎開が増加した。
9月15日、米軍がペリリューとモロタイ島に上陸。これを機に大本営は台湾、沖縄、小笠原のいずれかに連合軍が1945年春までに襲来すると判断し、準備を急いだ。
1944年10月10日に南西諸島各地、特に沖縄本島の主要都市、飛行場、港湾と伊江島が5回にわたって米海軍艦載機による空襲を受けた。この空襲により非戦闘員を含む少なくとも668人が死亡、旧那覇市では90%の家屋が焼失するなど大きな被害が出た。ちなみに首里城は当時の那覇市に含まれていなかったので、被害を免れている。
米軍は同時に地上写真を撮影して後の上陸戦に向けて情報収集も行ったようである。
1971年に復活した那覇大綱挽の開催日は体育の日に合わせたのではなく10・10空襲の日に合わせたものである。
大本営は、沖縄での戦いは陣地戦になると考えていたため、特別強力な戦車隊は配備しなかった。それでも満州の戦車第2師団の一部を抽出し、第27連隊として沖縄に配備。第32軍の指揮下に入った。
1944年10月18日、アメリカ軍がフィリピンのレイテ湾に上陸。フィリピンの戦いが生起した。しかしレイテ沖海戦に敗れ、地上での戦いも敗色濃厚となり、フィリピンへ増援を送る事が出来なくなった。そういった増援部隊は沖縄に配置転換となり、砲兵戦力が急激に膨れ上がった。こういった砲兵は一律第5砲兵師団和田孝助中将の指揮下に入れ、指揮系統の混乱を防いだ。
牛島中将は後方戦力の整備にも注力した。住民から志願を募って戦力を集め、防衛隊を編成。兵力は1万7000名から2万名と言われている。彼らは陸軍の下で訓練を受け、沖縄戦では陸軍に編入された。沖縄の14歳以下の男子は青年義勇隊として編成され、鉄血勤皇隊と呼ばれた。彼らは後方の通信隊に配属されたが、一部は前線に駆り出されている。
こうして第32軍は約10万の戦力を用意した。内訳は6万7000名の正規兵、約9000名の根拠地隊、そして約2万4000名の沖縄県民であった。
第32軍は、アメリカ軍の物量を思い知っていた。このため艦砲射撃の標的になりやすい施設や防御陣地は内陸に配置し、海岸線は放棄。敵を内陸に引きつけてから反撃する戦法が採られた。この戦法は少し前の硫黄島攻防戦で栗林忠道中将が実践し、連合軍に多大な出血を強いていた。また沖縄の墓は地下に造られる文化を利用し、即席の防空壕とした。加えて中に狙撃兵を配置。沖縄の地形は、守る側に有利だった。防御に適した地形には次々に陣地が作られ、各砲兵陣地が連絡し合えるよう地下道が四方八方に伸びていた。天然と人工の障害物を巧みに使い分け、砲撃しやすい場所にアメリカ軍が来るよう工夫された。洞窟の入り口には機関銃、重砲、迫撃砲、野砲が配置され、それぞれが完全に統率されていた。大きな洞窟には病院や兵営、戦闘指揮所が置かれ、空襲や艦砲射撃から身を守る防壁として機能。戦力の大半は南部に集中配備されたが、北部は手薄だった。嘉手納飛行場や読谷飛行場などを防衛するだけの戦力がなく、北部一帯は切り捨てる予定だったのだ。アメリカ軍は飛行場を占領するだろうから、その妨害のために150mm砲が飛行場を睨んでいた。アメリカ軍の上陸をいち早く察知すべく、内陸の各所に特設の偵察隊を配置。士気を鼓舞するために牛島中将はスローガンを制定。「1機で1艦を」「1艇で1船を」「一人十殺」などが作られた。
第32軍の徹底的な戦闘準備及び配置転換は、アメリカ軍にも伝わっていた。後方部隊にまで不安が広がり、一部の兵が不安を日記に綴っている。
1945年1月3日と翌4日、22日に、米機動部隊による空襲が発生。爆撃は12時間に及んだ。また米潜水艦や敵艦が沖縄周辺で遊弋し、日本本土との連絡は断たれつつあった。2月中旬頃にはもう完全に孤立してしまった。上陸の時が迫っているのは、誰の目にも明らかだった。
作戦指揮を執るニミッツ提督は、1944年10月25日に氷山作戦の計画書を各指揮官に配布。統合参謀本部は、この作戦のために55万の戦力を動員。これは史上最大の作戦と呼ばれたノルマンディ上陸より多い兵数であった。支援を担当するスプルーアンス提督率いる第5艦隊は改装を含め空母40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、その他数百に及ぶ補助艦艇を保有していた。上陸を担当するのはバックナー陸軍中将が率いる第10軍。彼には陣地の破壊以外にも占領地域の守備も請け負っていた。
アメリカ軍の作戦は、まず読谷と嘉手納飛行場を速やかに占領し、沖縄上空の制空権を奪取する事だった。上陸予定日は1945年3月1日に定められていたが、二週間延期となって15日になった。その後ニミッツ提督によって更に延期され、4月1日にまでずれ込んだ。フィリピン攻略に参加したマッカーサーの艦艇を参加させるかどうかで悩んでいたようである。
氷山作戦に割り当てられた艦艇や兵力は太平洋に広く分散していたため、第10軍は合同演習が出来なかった。そこで第10軍は訓練に関する指導や要綱を出し、各軍団長や師団長が現地で訓練させる手法を採った。参加する部隊はいずれも粒揃いで、大規模な上陸作戦こそ経験していないものの実戦経験豊富なベテランで占められた。レイテ島の第24軍団やサイパンの第2海兵師団は、日本軍掃討の合間に訓練を行った。
沖縄を守備する日本兵の数は当初4万8600名と推定していたが、1945年1月に6万6000名に修正。更に増援が到着しているならば8万7000名に達しているかもしれないと判断した。攻撃してくる日本軍機は3000機を想定し、沖縄には特攻雷撃艇の部隊が存在している事も把握していた。
1945年3月17日に硫黄島が陥落したことにより米軍は本格的に矛先を南西諸島へ向けることが出来るようになる。
レイテから米第77、第7、第96歩兵師団を乗せた輸送船団が出航。時同じくしてガダルカナルとパブブで第3海兵師団が乗船し、前進拠点のウルシーへと向かう。ここで大破したエセックス級空母フランクリンを目撃し、兵員は一様に不安を抱いた。3月25日、ウルシーを出発し沖縄方面へと向かった。
3月23日~24日に米軍は空襲と艦砲射撃で慶良間諸島を攻撃。26日には座間味島、阿嘉島、慶留間島に上陸したが、ここで日本軍の最初の反撃が行われた。先島諸島から飛び立った第8飛行師団が同日未明に特攻を仕掛けてきた。すかさずイギリス艦隊が先島を攻撃し、飛行場を使用不能にして無力化した。沖縄本島からも3回に渡って特攻機が飛来したが、連絡機や練習機まで使った無理な特攻だったため、29日に沖縄の航空兵力は消滅した。だが連合軍に与えた損害も意外と大きく、旗艦インディアナポリスを含む6隻が損傷。10隻が特攻機の至近突入で損傷し、2隻が触雷で沈没した。しかし作戦を遅らせる程度の影響は与えられなかった。
3月27日、第77歩兵師団が渡嘉敷島に上陸した。島内にあった350隻の特攻艇が破壊・放置されていたという。慶良間列島は特攻艇の秘密基地で、輸送船を攻撃する任務が与えられていたが、アメリカ軍の不意の上陸により役割を果たす前に失陥した。同地には975名の日本兵がいたが、戦闘能力を持っていたのは特攻艇の乗員である約300名程度であった。抵抗は少なく、あっと言う間に三島が占領された。米兵の戦死者は31名、負傷者81名。対する日本兵は530名が戦死、捕虜は121名以上、住民も195名以上が捕まった。逃げ延びた部隊は第32軍と連絡を取り合っていたが、やがて全滅するか捕縛された。
座間味島では135人、慶留間島では数十人、屋嘉比島では約10人、渡嘉敷島では330人が強制集団死・集団自決に追い込まれた。集団自決の原因としては「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降伏よりも死を選ぶ者が多かったこと、降伏した後に日本が勝ったらスパイとされてしまう恐れがあったことが挙げられるが、軍による強制もあったという証言もある。
3月31日、占領された慶良間諸島に155mm砲、通称ロング・トムが揚陸され、沖縄本島への砲撃準備を開始した。第10軍の上陸支援のために事前砲撃を加える予定だったが、第32軍は巧妙に戦力を隠していて、砲撃する相手が見つからなかった。結局、日本軍の配置が分かったのは本島上陸後の事だった。
4月1日午前4時6分、ターナー中将は上陸を命令。一斉に上陸艇や輸送船が動き始めた。夜明けを迎えた頃、特攻機が飛来。輸送船ヒンスデールと戦車揚陸船が突入を受け、爆発。戦死者7名と37名の負傷者、8名の行方不明者を出した。これが沖縄戦初の米兵の戦死者である。他にも戦艦ウェストバージニアやその他艦艇に損害を与えている。
アメリカ軍は戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、慶伊瀬島のロング・トムに猛烈な援護射撃を行わせ、沖縄本島西海岸にある読谷村渡具知海岸へ上陸。しかし地上での持久戦に持ち込む方針だった日本軍は散発的な反撃しか行わなかった。慶伊瀬島に対する砲撃と、上陸部隊の作業を妨害するため4時間の射撃を加えた程度だった。このためアメリカ軍は殆ど損害を受けずに上陸を遂行。その日のうちに読谷・嘉手納の両飛行場を占領した。あまりにすんなり上陸できたことから米軍兵士は「エイプリルフールか?」と不思議がったという。
4月2日午前7時30分、上陸したアメリカ軍第10軍は前進を開始。空は快晴で、命じられた施設の占領を目指して進軍を続ける。相変わらず日本軍の抵抗は少ない。だが、進んでいくたびに抵抗が強くなっていく。最初に第10軍の前に立ちふさがったのは、住民からなる防衛隊であった。当然ながら錬度は低く、900名以上が戦死。26名を捕虜となった。アメリカ軍は捕虜から情報を聞き出そうとしたが、「日本軍は南へ移動した」という事くらいしか分からなかった。この日のうちに第7歩兵師団第17連隊が、中城湾を見下ろす高地を占領した。
4月3日には米軍は沖縄本島東海岸中城湾に達し、日本軍は南北に分断された。しかし速過ぎる進軍は補給計画に狂いが生じ、補給部隊が四苦八苦。また第32軍主力の所在は未だ掴めず、言い知れぬ不安が米兵の間に広がっていた。不気味な沈黙を保ち続ける日本軍。対する第10軍の部隊は南北に分かれ、進撃を再開。陣地を制圧しつつ、要所を占領していった。あまりの好調っぷりにアメリカ軍は作戦のスケジュールを切り上げ、兵士の間にも楽観ムードが漂い始めた。
4月5日には海軍軍政府布告第1号「権限の停止」(通称「ニミッツ布告」)を公布し、米軍占領地の沖縄住民に対して日本の行政権が停止されたことを通告し軍政を敷いた。
沖縄北部の攻撃を担当していたのは米第6海兵師団であった。戦車を保有していた同師団は10日間で40km以上を踏破。人工・天然の障害を物ともせず強行軍を続けた。元々手薄だっただけに日本兵の攻撃は少なく、4月13日には辺土岬を占領。しかし本部(もとべ)半島の八重岳には日本兵1500名が配備されており、また第6海兵師団は戦力配置を把握していなかった。八重岳を守るのは宇土大佐率いる守備隊であった。高所を押さえて地の利を得、さらに複数の防御陣地を構築していた宇土隊は巧みに戦力配置がなされていた。第6海兵師団の攻撃をよく押さえ、進撃の足を遅らせた。開けた土地には狙撃兵を配置し、海兵隊の将校が来るまで忍耐強く待った。そして多くの将校を餌食にした。
しかし英語を話せる沖縄県民を捕虜にした事で、第6海兵師団に宇土隊の配置がバレてしまう。さっそく4月14日、八重岳への攻撃が開始される。高所から日本兵が機関銃や迫撃砲を放つが、米兵の動きは鈍らなかった。激しい陣地争奪戦の末、4月15日夜の時点で1120名以上の日本軍将兵が戦死。残りは洞窟内に閉じ込められた。翌16日、米兵が八重岳の山頂に到達。宇土隊の反撃を退け、掃討戦に移行した。八重岳を越えた米兵は北方の日本軍を討伐し、4月20日に沖縄北端へ到達。シェファード師団長は北部の組織的抵抗は終わったと宣言し、北部はアメリカ軍の手に落ちた。第6海兵師団の戦死者は207名、負傷者757名、行方不明者6名を出し、日本側は2000名以上の戦死者を出した。その大半は陣地を堅持しようとした頑強な者たちだったと言われている。
伊江島への攻撃は4月16日黎明に開始された。激しい上陸支援砲撃が行われ、同日中にアメリカ軍が上陸した。上陸当初の抵抗は少なかったが、突然日本軍の抵抗が強くなる。洞窟や墓に隠れて持久戦を狙う日本兵は屈強で、1mを争う激戦が展開された。伊江島には7000名の日本兵がいたが、これまた巧みに隠されていてアメリカ軍は戦力を過小評価していた。4月19日早朝、日本軍の本陣がある伊江城山で戦闘が始まる。当然ながら日本軍は高所に陣を張り、本陣へと続く道を見下ろせる位置に展開していた。攻撃を担当した第77歩兵師団は出血を強いられ、戦死者239名と負傷者879名という沖縄戦初の大損害をこうむった。一連の戦いで有名な従軍記者アーニー・パイルも機関銃に撃たれて戦死している。しかし日本側も4706名が戦死し、149名が捕虜となった。4月21日、アメリカ軍は伊江城山の陥落によって伊江島を占領したと発表。向こう4日間は敗残兵狩りが行われた。
北部の要衝を制圧したことでアメリカ軍は沖縄本島南部攻略に専念できるようになった。ちなみに伊江島の飛行場は日本兵に破壊されていた。
第6海兵師団が北方へ進撃している頃、第1海兵師団は橋頭堡から島の中央部を通って東進していた。
4月6日に勝連半島に達し、藪知(やぶち)島を占領した。あまり抵抗を受けなかった第1海兵師団は、相手を求めて後方に放置してきた日本軍拠点を潰して回った。日本軍は、沈黙を続けている。第32軍の司令部がある首里地区は曇天に覆われる日が多く、アメリカ軍の上空偵察から戦力を隠し続けていた。おかげで未だ防衛線の実情を把握できずにいた。
同じく4月6日午前2時、米第10軍は金武湾の占領を掲げて侵攻を開始した。第32軍が主力がいるであろう南部との戦いに備え、後顧の憂いを断つ必要が出てきたのである。湾内にある6つの小島を占領すべく、海兵隊が上陸してきたが、すかさず日本軍が反撃。迫撃砲と機関銃の猛攻を受けて、海兵隊は撃退された。別の島でも上陸作戦が開始され、4月10日午前8時40分に第27歩兵師団第105連隊第3大隊が津堅島に上陸。事前に激しい爆撃を加えていたにも関わらず、元気な日本軍が迎撃した。夜になっても戦闘は終わらず、第3大隊は大損害を負って撃退された。しかし4月11日午後3時30分頃には組織的抵抗は終わり、津堅島を失陥。金武湾を支配下に置いたアメリカ軍は、良好な艦隊停泊地を獲得。更に中城湾への足がかりをも得た。
第32軍主力が控える南部への攻撃は、ホッジ陸軍少将率いる第24軍団が担当した。
南進して数日が経つと、日本軍の強固な防衛網が姿を現した。進軍を阻まれた第24軍団は、4月7日に砲撃支援を受ける。戦艦ニューヨークや航空攻撃、四個砲兵大隊が攻撃を加えたが、嘉数にすら到達できない。翌8日と9日は荒天となり、激しい風雨に紛れて日本軍の少数斬り込み攻撃が行われた。矢面に立たされた米第96歩兵師団は、ところどころで撃退される。4月10日にも海と陸から援護射撃を受けたが、それでも日没までに300mしか前進できなかった。
4月12日、13日、14日の深夜に日本軍が第24軍団に突撃を仕掛けたが、機関銃や迫撃砲で1548名の戦死者を出した。何とか猛攻を凌いだ第24軍団だったが、首里の防衛線の強固さと砲兵の不足から手詰まりになりつつあった。ホッジ少将は海兵隊の砲兵を抽出し、4月19日を総攻撃の日に定めて準備砲撃を開始した。更に米航空隊は482トンの爆弾と3400発のロケット弾、70万発を超える機関銃を日本軍陣地に浴びせた。4月19日午前6時、予定通り総攻撃を実施。27個大隊の砲兵が、ありとあらゆる火砲を使って猛攻を仕掛け、更に火力支援として357機の航空機が完全な統率のもと攻撃に加わった。この恐るべき砲弾の雨に、アメリカ軍は日本兵の全滅を確信した。しかし、実際には殆ど損害を与えられていなかった。彼らは強固な洞窟に守られていたのである。楽観的に進軍を再開した米兵は、猛烈な機銃掃射を受けて現実を認識する羽目になる。進軍の足は完全に止まった。
嘉数高地の攻略は第24軍団の目標であったが、こちらも日本軍の猛攻で行き詰まっていた。そこで第24軍団はシャーマン戦車30輌による支援を受け、強引に突破しようと試みた。ところが日本軍に先読みされ、正確な射撃と自爆攻撃で22輌が撃破される大損害をこうむって撃退された。何とか浦添村の西端まで達したアメリカ軍であったが、嘉数には全く手が出せなかった。一方、第32軍は4月23日と翌24日夜の間にこっそりと退却を開始。これは戦線を整理したい牛島中将の判断だったとされる。日本軍が後退した事で、ようやく嘉数を占領できたアメリカ軍であった。あまりにも損害が大きかったため、第27歩兵師団は後退。代わりに第1海兵師団が送られた。
藤岡中将率いる第62師団は、アメリカ軍の猛爆によく耐えて戦線を維持していた。4月末までに戦力が半減したが、それでも士気は旺盛だった。後方にはまだ第24師団主力、独立混成第44旅団の残存戦力、第5砲兵団などが温存されていて、相当な戦力を保持していたからだ。これに伴って第32軍内で反撃・攻勢を望む声が大きくなり、南東地区への米軍上陸を警戒して置いておいた第24師団と第44旅団を首里地区に移動させた。そしてアメリカ軍の先鋒である第24軍と、普天間にあるとされる第10軍の司令部粉砕を企図した。
5月4日早朝、日本軍は浦添・西原で米軍へ総攻撃を仕掛ける。同時に米軍の側面を突くべく、逆上陸も試みられた。総攻撃に呼応して神風特攻隊による攻撃も行われ、沖合いでも戦闘が開始された。巡洋艦バーミンガムや空母サンガモン、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、機雷敷設艦1隻が損傷し、米海軍は戦死者91名と負傷者280名、行方不明者283名の損害を出した。午前4時30分、米第24軍団に向けて数千発に及ぶ迫撃砲が放たれ、日本兵が一挙に突撃。ところが艦砲射撃や航空攻撃、砲兵16個大隊の逆襲により敗退。逆上陸を試みた別働隊も壊滅させられ、全線で攻勢に失敗した。日本は約5000人、米軍は700人が戦死した。この時、戦死した日本兵はベテラン揃いで、兵力の75%を喪失。砲兵の数は半減し、火砲59門は全て失われた。以降、アメリカ軍に有効な砲火力を浴びせられなくなる。
総攻撃が失敗した後、日本軍は牛島満司令官率いる第32軍司令部が首里城地下に掘った壕で持久戦の構え、大田實少将率いる沖縄方面根拠地隊が小禄地区に掘った壕に籠もることにした。長参謀長は「この沖縄作戦の成功についてのあらゆる希望が消えた。我が第32軍の敗北は時間の問題である」と述べた。
米軍は第1海兵師団を先頭にし、首里を目指す。対する日本軍は勢理客(じちゃく)、内間(うちま)から沢岻(たくし)の間、安波茶(あわちゃ)に防衛線を敷いて迎撃。5月6日、まず第1海兵師団は雨が降りしきる中、沢岻の突破を試みたが、正面と側面から銃撃を受けて失敗した。安波茶の攻略には第5海兵連隊が投入されたが、砲兵の支援下にあったにも関わらず第32軍の頑強な防御にぶつかって前進が困難となっていた。困ったアメリカ軍は火炎放射器と爆破班を使い、一つずつ陣地を潰していったが、それでも遅々として進まなかった。
5月8日、遠く離れたヨーロッパでナチスドイツが降伏。欧州戦線は終結し、戦勝パレードが行われていた。沖縄を攻囲する連合軍艦隊も礼砲を撃ったり、甲板上で喜んだりしていた。しかし最前線にはそんな余裕は無かった。両軍とも、冷たい雨に打たれながら目の前の戦闘に死力を尽くしていた。「ドイツが降伏したのに何故日本は戦い続けるのか」という疑問が米兵の間に広がり、厭戦気分が染まっていく。
5月9日、再び安波茶の谷に第1海兵師団が突撃。緒戦はアメリカ軍が制し、奥深くにまで侵攻したが、やがて側面から日本軍の銃撃を受けて停止。その日の夜には斬り込み攻撃まで行われ、凄まじい白兵戦が行われた。かろうじて機関銃で撃退し、翌10日午前8時に前進を再開した。沢岻への攻撃も続行されたが、日本軍の猛反撃により第5海兵連隊の損害は見る見るうちに増加。多大な対価を払い、砲兵と戦車と火炎放射の支援でようやく安波茶中心部を制圧した。5月11日頃には安波茶全域が占領された。13日には沢岻も失陥し、第32軍の防御の一角が崩れた。
5月14日午前5時30分、第10軍は一斉に砲火を放った。首里に通じる東西の道を確保し、司令部のある首里城を制圧するためである。司令部近隣だけあって日本軍の反撃も激しく、体当たり攻撃でシャーマン戦車16輌が破壊された。少し前の5月12日からは首里城西方の最終防衛ラインで、シュガーローフの戦いが生起。わずか20mの小高い丘を巡り、日米双方が激戦を繰り広げた。日本軍はシュガーローフ、南側のホースシュア、東側のハーフムーンに5000名の兵を置き、また地下にトンネルを作って輸送や連絡が容易になるよう工夫していた。突破を目指すアメリカ軍だったが、身を隠す所が無い平地で十字砲火を受け、大損害を受ける。特に八九式重擲弾筒が猛威を振るい、位置をさらした機関銃分隊が全滅したケースも多々あった。血で血を洗う攻防戦の末、18日頃にシュガーローフは占領された。しかしハーフムーンの戦力が徹底抗戦を続け、更なる出血を強いた。同日中に安里も米軍の手に落ちた。シュガーローフの失陥により、牛島司令官は5月22日に摩文仁方面への撤退を決定する。
首里放棄については軍幹部の中でも意見が分かれたようで、第62師団長の藤岡武雄中将も反対を表明した。数千の重傷者を放置するのは忍びないのと、軍が南へ撤退すれば市民が巻き込まれる事が主な理由だった。しかし牛島中将は諸々の反対意見を却下し、南部への撤退を強行した。
5月23日深夜、撤退する部隊が密かに首里を離れた。運べる負傷者と医薬品も一緒に持ち出された。翌24日には歩ける負傷者が撤退を開始。重傷者はモルヒネを注射されるか、あるいは放置されて苦しんだ末に死んでいった。5月29日、包囲網が狭まる中で主力隊が撤退。翌30日の夜明けには大部分が脱出した。
アメリカ軍が首里に近付くにつれ、天候が悪化。5月21日頃から降り始めた雨は長雨となり、第1海兵師団の進撃速度は衰えた。地面がぬかるみ、首里の東方から攻めていた第24軍団も行動不能に陥る。まるで天が第32軍に味方しているかのようだった。しかし翌22日に、大里(おざと)高地が米軍に占領され、旧那覇市街地への侵入を許してしまった。
5月28日、第32軍主力が撤退した首里に突入、5月31には掌握した。この時、カロライナ出身の兵士が城の上には星条旗ではなく南部連邦の旗を掲げて少し問題になっている。ちなみにバックナー少将率いる部隊が首里城を完全に包囲していたが、豪雨に紛れて第32軍司令部は脱出に成功している。
首里の失陥によって沖縄戦は一つの節目を迎えた。6万2548名の日本兵が戦死し、465名が捕虜となった。米軍の死者は5309名、負傷者2万3909名、行方不明者は346名だった。
6月1日、アメリカ軍の第6海兵師団は小禄半島に対する上陸準備を開始した。小禄には帝國海軍の拠点があり、大田実海軍少将率いる守備隊が展開していた。偵察の結果、小禄の日本軍は脆弱だと判定された。6月4日早朝、小禄の日本軍陣地に対し熾烈な砲撃が行われた。75mm野砲から36cm砲弾まで4200発以上の砲弾が撃ち込まれた。午前6時、72隻の上陸用舟艇に分乗し、海兵隊員が上陸した。日本軍の抵抗は、散発的な機関銃掃射程度だった。アメリカ軍は三個大隊で包囲を開始。勢いづいた米軍は進撃速度を速めたが、険しい地形に阻まれて動けなくなる。そこへ大量の機関銃で武装した日本兵が逆襲に転じ、双方に甚大な被害が及んだ。アメリカ軍は、小禄の日本軍を過小評価していた事を思い知らされた。
6月6日、大田少将率いる守備隊を喜屋武半島の主力から分断され、小禄半島南部へと追いやられる。大田少将は東京に訣別電を送った。翌7日、第6海兵師団が日本海軍司令部壕を攻めるが日本軍は耐えきった。8日と9日の戦闘において日本軍守備隊は驚異的な粘りを見せ、第6海兵師団を全く前進させなかった。アメリカ側の記録によると「険しい地形と激しい抵抗のため前進が捗らない。日本兵一人ひとりが機関銃を持っているようで、軽迫撃砲や重迫撃砲まで飛んでくる。我が軍の被害は増加している」と綴られている。米軍のシェファード少将は南・南東からの攻撃に作戦を切り替え、6月10日から翌11日にかけて総攻撃を加える。死地に追いやられた日本軍は猛反撃し、米軍へ首里戦線以上の損害を与えるも、6月12日夕刻に最後の拠点を敵に奪取された。13日、歩兵二個大隊が掃討を行い、茂みに隠れていた日本兵を射殺して回った。彼らは大人しく投降するか、自決するか、最後まで抵抗した。約200名が捕虜になったとされる。6月13日に大田少将ら幕僚が自決し、シェファート少将も17時50分に戦闘の終結を報告した。海兵隊の死傷者は1608名にのぼった。
第6海兵師団が小禄に上陸した6月4日、第1海兵師団は那覇と与那原を結ぶ線から1600m前進した。長く降る雨の影響で地面はぬかるみ、後方のブルドーザーや補給トラックは何度も足を取られた。6月5日の深夜に一旦雨が止んだが、あまり太陽が顔を出さなかったので道路は乾かなかった。また第1海兵師団の行く手には多数の日本軍陣地があり、出来るだけ時間を稼ぐよう命じられていた。このため第1海兵師団の進撃速度は遅々としていた。しかし時間の少なさから急造の陣地しかなく、アメリカ軍の攻撃を長く食い止める事は出来なかった。そして6月7日は晴天となり、第1海兵師団は急進。糸満北方の西海岸に到達し、小禄半島の大田部隊と南部の第32軍を分断する。本丸の摩文仁を前に多くの死傷者が出ると予測したアメリカ軍は6月11日、糸満北方約1800mの地点に飛行場を建設。連絡機を発着できるようにし、負傷者の搬送に使った。同日、牛島中将はサイモン・ボリヴァー・バックナー中将から降伏勧告を受けたが、「武士として勧告を受け入れる訳にはいかない」と大笑いしながら黙殺した。
第1海兵師団第7海兵連隊は激しさを増す日本軍の抵抗の中、糸満東方に進出。照屋(てら)の集落を掃討して南の台地に陣取った。眼前には国吉(くにし)高地が広がっていたが、ここには日本軍の主陣地が置かれていた。高地そのものが要害で防御側に大変有利、しかも日本軍の対戦車砲が極めて有効な場所に配備されてあった。陣地に至る道は2本しかなく、遮蔽物も無いため、高所を押さえている日本兵は苦も無く米兵を射撃できた。第7海兵連隊は6月11日正午より攻撃を開始したが、すぐに行き詰まった。このままでは被害が拡大するだけだと連隊長は判断し、第7海兵連隊は後退した。翌12日午前3時30分、国吉高地への攻撃が再開された。これは完全な奇襲となり、午前5時に高地の尾根に到達。日本軍より高所を陣取る形となった。奇襲から立ち直った日本軍守備隊は猛烈な反撃を実施、後続の海兵隊部隊に砲弾が降り注いだ。後に続くはずだった海兵隊は撃退され、尾根にいる第7海兵連隊は孤立。パラシュート降下で補給品を送る羽目になった。海兵隊員が地に落ちた補給物資を取りに行ったところ、日本軍狙撃手に撃たれる事態が多数発生。ある日本兵狙撃手は殺されるまでに31名の米兵を死傷させたという。負傷者を搬送しにきたシャーマン戦車には狙撃対策として砂袋が巻きつけられていた。
6月14日午前3時30分、第1海兵師団が国吉高地を攻撃。30分に渡る準備砲撃を経て、第7海兵連隊が孤立する尾根を目指して進撃した。二個小隊が尾根に到達したが、残りの部隊は日本軍の正確な砲撃を受けて登頂に失敗。はるか下方で銃弾の驟雨にさらされていた。夜になると日本軍の砲撃は激しくなり、二個小隊も孤立させられた。翌15日の夜明けになっても、高地の70mまでしか占領できなかった。鬼神の如き抵抗をする日本軍守備隊に手を焼いたアメリカ軍は6月15日と16日に爆撃や艦砲射撃に加え、火炎放射戦車と通常戦車が攻撃を加えたが、国吉高地の日本兵はピンピンしていた。それでも困難な前進を続け、日本軍陣地を一つずつ潰していった。泥沼と化した国吉高地を巡る戦闘は、突然終息に向かった。6月16日の日没までに真栄里への道が切り開かれ、高地を守る守備隊が孤立してしまったのだ。それでも一部の部隊は抵抗を続けたが、第1海兵師団に掃討された。
6月17日午前3時、アメリカ軍は真栄里高地の手前まで前進。正午頃に頂上を占領し、集落もアメリカ軍の手に落ちた。次なる目標は小波蔵(くわんが)高地だった。だがここは真栄里のように上手く行かなかった。小波蔵・真壁道間を見下ろす高地から日本軍の猛烈な射撃を受け、夜になっても占領を許さなかった。そして日本軍の第22歩兵連隊が夜襲を仕掛けたが、これは失敗に終わって全滅してしまった。
6月18日早朝、第10軍司令バックナー中将は前線視察に訪れていた。第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐は「これより前線は行かれぬよう。日本軍陣地から砲弾が飛んできます」と忠告したが、聞き入れられなかった。その約1時間後、ロバーツ大佐は狙撃されて死亡した。そうとは知らずにバックナー中将は真栄里にある第8連隊第3大隊の監視哨に到着。前方の戦闘状況を視察した。
数分も経たないうちに、日本軍が放った47mm対戦車砲弾が付近に着弾。続けざまに5発の砲弾が飛来し、飛散した破片がバックナー中将の胸に突き刺さった。致命傷を負った彼は10分後に死亡し、最高司令官の戦死は参謀長によって直ちにニミッツ提督へと報告された。この光景を目撃したアメリカ兵は、付近の住民が合図を送ったと断定して数十人を射殺している。6月19日、後任に第3海兵師団長のガイガー少将が据えられた。
バックナー中将の死には諸説あり、狙撃されたとも言われている(1954年に大将に昇進)。2020年現在、米軍史上において最高位の階級での戦死である。
残念なことに、沖縄戦全体の民間人の犠牲は日本軍敗北の戦局が決定的になった首里陥落以降の方が多い。日本軍に民間人を守る余裕が無いこと、軍に付いていった方が安全だと信じた住民が多かったこと、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降伏よりも死を選ぶ者が多かったこと、事前の疎開が追いつかなかったこと、牛島司令官ら現地軍も東京の日本政府・大本営も徹底抗戦にこだわったこと、バックナー中将も強硬すぎたこと、バックナー中将戦死で米海兵隊が暴走し無差別虐殺に走ったこと、などが原因と考えられる。
6月18日夕刻、牛島中将は最後の軍命令を発令。各陣地に留まり、現場の上官に従い、祖国のために最後まで戦うよう命じた。同時に台湾の第10方面軍と大本営宛てに訣別電を打ち、別れを告げた。翌19日、第10方面軍は第32軍に感状を授与している。
6月19日、アメリカ軍の戦車や摩文仁の第32軍司令部に向けて砲撃。最後の戦いが幕を開けた。例によって日本側の抵抗は凄まじく、第96師団の副師団長イーズリー准将が機関銃に撃たれて戦死した。この日の夜、第32軍司令部では訣別の宴が行われ、参謀ら20名が後方で撹乱を行うべく民間人に扮して脱出を図ったが、全員行方不明か戦死している。6月21日、ガイガー少将が沖縄戦の終結を宣言。ニミッツ提督も同様に終結を宣言したが、未だ散発的に戦闘が行われていた。翌22日午前2時、第62師団長や歩兵第63旅団長、参謀長以下要員が自決。正午頃には第32軍司令部の衛兵が全滅し、摩文仁から銃声が聞こえなくなった。
6月23日午前4時30分、牛島司令官や長勇参謀長が摩文仁の司令壕で自決。これによって日本軍の組織的戦闘は終結した。この6月23日は後に沖縄県で「慰霊の日」となった。その後も戦闘自体は続いていて、6月26日に沖縄県知事が死亡した。7月2日に米軍は沖縄作戦の終了を宣言したが、まだ第24師団歩兵第34連隊が生き残っており、完全に終結したのは降伏文書に署名した9月7日の事だった。
アメリカ軍の損害は戦死7374名、行方不明239名、負傷者3万1807名となった。第10軍の死傷者数は総兵数の60%に達したという。航空機の喪失数はイギリス軍も含め763機、撃沈された艦船は36隻(うち26隻が特攻機の戦果)、損傷は368隻にのぼった。全期間を通して撃沈された連合軍の艦艇のうち、2割が沖縄周辺に集中している。戦車は221輌を喪失し、94輌(火炎放射戦車は12輌)が全損した。
沖縄県立第一高等女学校と沖縄模範学校女子部から生徒222人・教師18人が南風原の沖縄陸軍病院へ動員された。
沖縄県立第一高等女学校には校友会誌「乙姫」、沖縄模範学校女子部は校友会誌「白百合」があり、二つの校友会誌が統一された際に「姫百合」と名付けられた事に由来して「姫百合学徒隊」と呼ばれた(平仮名表記が主流になったのは戦後)。
首里放棄後は軍と共に摩文仁へ南下。6月18日に解散命令が出るが、その後の戦闘や自決により最終的に動員されたうち生徒123人、教師13人が死亡した。
伊江島には日本軍約2700人(うち約1000人は伊江島から招集)、住民は島外避難した約3000人を除いて約3000人がいた。
4月16日に米軍が上陸し、4月18日にピューリッツァー賞受賞者の従軍記者アーニー・パイル氏が伊江島で日本兵に狙撃され戦死。4月21日には米軍が制圧。
米軍によれば日本兵を4706人殺害したつもりが軍服を着た民間人だったというケースがあまりにも多く、1500人を超えたという。
建物は公益質屋だけを残し全て破壊された。その公益質屋は弾痕だらけのまま現在も残っている。
人口約59万人(1944年;後の県外疎開で沖縄戦開始時には42万~50万人に減っていたはずである)の沖縄県で日本軍11万6400人(沖縄出身含む)と米軍54万8000人が交戦した。犠牲者数は沖縄県援護課によれば20万0656人(日本18万8136人、うち沖縄県出身者12万2228人(一般人9万4000人、軍人・軍属28,228人)、他都道府県出身兵 6万5908人、アメリカ1万2520人)だが、ここでは戦病死や餓死が含まれていないようである。沖縄県営平和祈念公園内「平和の礎」には国籍問わず24万1336人(2015年6月23日現在)の戦死者の名前が刻まれている(ただしこれは満州事変から終戦までの沖縄県出身戦死者を含んでいる)。
「大和を沖縄の海岸に乗りあげて砲台としてアメリカを迎え撃つ」天一号作戦として4月6日に戦艦大和が沖縄へ向けて徳山港を出港するが、途中の坊ノ岬沖で米海軍第58任務部隊の艦載機による猛攻撃を受け撃沈した。
日本側の戦死者は伊藤整一中将(死後、大将)、有賀幸作大佐(死後、中将)ら3721人に上った。
詳細は神風特攻隊の記事参照。
沖縄戦でも神風特別攻撃隊による攻撃が実行され、米海軍の損害の多くは特攻隊によるものが占める結果となった。
戦艦大和と運命を共にした伊藤整一大将の息子・伊藤叡中尉も沖縄海域で特攻作戦で戦死している。
石垣島で米陸軍航空兵捕虜3人が処刑された。関係者は戦後、GHQによって戦犯裁判にかけられた。
日本政府が捕虜待遇に関するジュネーヴ条約を批准しなかった結果起きた、双方にとっての悲劇である。
詳しくは久米島守備隊住民虐殺事件参照。
久米島では6月23日の組織的戦闘終了後、鹿山正兵曹長率いる日本海軍通信隊・守備隊が「降伏勧告書」を持って来た島民にスパイ容疑をかけ殺害する事件が起きた。最終的に5件の犠牲者だけで島民22人。一説では29人。
八重山諸島に来た日本軍は3月頃から軍施設の建設と食糧確保のために各島島民を石垣島北部や西表島へ疎開させた。家畜は敵の食糧にしないためという名目でほとんどが処分されたが、実際には一部が日本軍の食糧として流用された。
当時の石垣島北部や西表島は現在と違ってマラリアの危険が極めて高い土地であった。疎開先で島民は次々とマラリアに罹患、抗マラリア薬も最初から不足していた。帰島後もマラリアを持ち込んでしまったことで戦後も被害は続いた。農繁期の疎開、事前の家畜処分による飢餓も重なり八重山島民は苦しむことになる。
八重山諸島全体の人口は約3万人だったが、このうち1万6000人以上がマラリアに罹患し3647人が死亡する大惨事となった。
山下虎雄と自称する軍人の脅迫で西表島へ全島疎開した波照間島出身者は特に犠牲者の割合が多く、島民約1500人のうち90%以上がマラリアに罹患、死亡者は477~522人にのぼった。西表島南風見田海岸には波照間島民の強制疎開・マラリア禍の記憶のため「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれた石碑がある。
疎開が軍命によるものかが曖昧だったため、戦後になって国家補償で問題が起きることとなる。
1999年に石垣島に建っている八重山平和祈念館の展示内容のうち、沖縄県の要請で「西表島への軍命による強制退去」から「避難命令」に書き換えられるなど旧日本軍の責任が軽くなるような展示へ変えられていたことが判明した。
首里城は10・10空襲の被害は免れた(当時は首里市内であり旧那覇市に含まれていない)。しかし日本陸軍第32軍が首里城に司令部を置き5月の攻防戦を繰り広げたことで、首里城だけでなく守禮門など周辺の史跡も所蔵文化財・工芸品も巻き添えとなり破壊し尽くされた。
詳しくは沖縄県営鉄道の記事参照。
沖縄本島には鉄道路線があったが、全て沖縄戦で破壊され、戦後も復旧しなかった。
2003年に新路線で沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開業した。
沖縄では戦後になって平和・戦争をテーマにした曲・歌が多数作られることになる。
泡盛作りには発酵過程で黒麹菌を用いるのだが、戦争で失われてしまった。戦後間もなく酒造家の佐久本政良氏が泡盛工場跡に埋まっていたニクブク(稲藁のむしろ)から黒麹菌を取り出し培養することに成功、泡盛作りは復活した。
1998年になって、戦前に坂口謹一郎東京大学名誉教授が保管した別の黒麹菌が発見され、そこからも泡盛が造られるようになった。
那覇市には琉球王朝時代から辻遊郭があった。遊女に相当する尾類(ジュリ)が客を選べるなど、本土とは違う独自の遊郭文化があった。
辻遊郭は10・10空襲で焼失。焼け出された尾類達は従軍慰安婦になる者も多かった。
戦後は沖縄独自の遊郭文化はジュリ馬行列を残すのみでほぼ断絶し、それさえも売春の肯定になってしまうと主張する一部の女性人権団体の反発で中止されたことがある。
沖縄戦敗北が確実となっていた6月6日、大田實海軍少将は以下のような電文を海軍次官宛に送った。(□は不明箇所)
宛 海軍次官
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ
之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
米軍に捕らえられた住民・日本兵は沖縄各地に設けられた16の収容所に分けられ、ハワイの収容所へ送られた者もいた。
収容所と言っても有刺鉄線で囲まれた区域で、建物は良くてテントだった。食糧・衣服は支給されたが不充分で、飢餓やマラリアで命を失った者も多かった(少なくとも3000人)。
米兵による強姦、沖縄県民や朝鮮出身者による日本兵への報復リンチも起きた。
戦後しばらく米軍の上陸が無く、無政府状態に陥った上に飢餓とマラリアに苦しむ八重山地方で、12月15日に有志が自治組織「八重山自治会」を結成し、民主的手続きで会長に宮良長詳氏、副会長に宮城信範・吉野高善両氏を選出した。
8日後の12月23日に八重山へもアメリカの主権が及び、米軍政府下の八重山支庁発足に伴い八重山自治会は解散した。その支庁長に宮良長詳氏が就くなど自治会の組織が支庁に反映されている事を考慮すれば消滅ではなく組み込まれたという方が近いかもしれない。
自治会に上級政府が(法的にはともかく)事実上存在しない状態が8日間続いたこと、共和政的体制だったことから「八重山共和国」とも呼ばれる。
散発的な戦闘は続いたものの日本が降伏した8月15日以降は米軍は本格的に沖縄を占領・統治する。アメリカ統治時代、俗に言うアメリカ世である。詳細はアメリカ世の記事参照。
両親の死亡、生き別れなどにより、疎開帰還者を含めて数千人の戦争孤児が発生した。
全ての遺体が埋葬されたとは限らない。現在も沖縄戦の遺骨が見つかることがある。
沖縄県内には2050t~2300tの不発弾が残っていると推定されていて、全て処理するにはあと70~80年かかる量である。年に約1000個ほどが見つかっている。
1974年3月2日には那覇市小禄の聖マタイ幼稚園近くで起きた爆発で幼児含む4人が死亡した。
全国戦災史実調査は総務省などが社団法人日本戦災遺族会(2010年解散)に委託して1977~2009年度に戦災に関する資料を調査・収集したものであるが、沖縄戦はほとんど扱われていない。
2015年にこれを問題視した照屋寛徳衆院議員(沖縄県出身)の質問主意書に対して安倍晋三内閣は「行政文書が残っておらず不明」とする答弁書を閣議決定した。沖縄県は沖縄開発庁(現内閣府)が担当していたためとされるが、総務省は今後も政府として沖縄戦の調査を行う予定は無いとしている。
東京新聞:沖縄抜き「全国戦災史」 国の調査、戦後70年行われず
「強制集団死」という名称については、強制された自殺ではないから「強制」という名称は相応しくないという意見がある。
一方で「自決」というのは責任を取るか意思表示のためのものだから「集団自決」と呼ぶのは相応しくないという意見もある。
作家・大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波書店)の記述をめぐって、梅澤裕座間味島元戦隊長や故赤松嘉次渡嘉敷島戦隊長の遺族・弟の赤松秀一氏が大江氏・岩波書店を名誉毀損で訴えた。
最高裁まで持ち込まれ、2011年4月22日に原告敗訴が確定した。
岩波書店・大江健三郎訴訟は2006年度教科書検定へ飛び火し、高校日本史教科書から「軍強制による集団死」という記述が消えた。
これに反発して2007年9月29日に「教科書検定意見撤回を求める」沖縄県民大会が行われた。主催者発表では11万6000人(宮古・八重山の別会場含む)が集まったとされるが、沖縄県警幹部の話では4万人強しかいなかったとする産経新聞の記事を支持する意見も根強い。
掲示板
109 ななしのよっしん
2024/04/28(日) 05:13:31 ID: arCuV21Qun
「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」って言うマッカーサーの意見正論だと思うけどお前らどう思う?
沖縄戦で米軍は八原博通に苦しめられたらしいけどそもそも飛行場奪った後に南部攻めなければ八原博通の出る幕も無かったと思う。
110 ななしのよっしん
2024/04/28(日) 07:02:58 ID: arCuV21Qun
>>98
むしろ硫黄島の戦いで米軍はひどい目にあったのに懲りずに沖縄戦したのが謎。
111 ななしのよっしん
2024/08/22(木) 14:18:24 ID: Bl+cBqz1j+
>>106
本土上陸受けてたらもっと慌てるだろうから後者だな
それにしてもここまで来てまだ諦めなかったのは謎すぎる
ただ不可侵(軍事衝突済み)のソ連がなんで仲介引き受けてくれるとまで楽観的になれたのか
急上昇ワード改
最終更新:2024/10/06(日) 09:00
最終更新:2024/10/06(日) 09:00
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