沖縄戦 単語

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ただし既にこの記事の方が総務省の「全戦災史実調報告書」より詳細です。

沖縄戦とは、太平洋戦争/大東亜戦争における沖縄戦場にした日本軍連合軍(ほとんどアメリカ軍、一部イギリス軍)の戦闘である。

本記事での日付について

この記事では、年を省略した日付は特に断りがければ1945年す。

概要

狭義では1945年3月1日沖縄爆撃3月23日沖縄爆撃3月27日の慶良間諸米軍上陸、4月1日沖縄本島米軍上陸から6月23日牛島満自決によって沖縄日本軍の組織的抵抗が終了した期間をす。ただし、それ以前に起きた1944年8月22日対馬丸撃沈や、1944年10月10日沖縄大空襲十・十空襲)を含めることも多く、降調印式は9月7日である。

沖縄戦のあまりの惨状は「の暴」「暴風雨」「ありったけの地獄を集めた」と言われるようになった。米国原爆投下正当化論では沖縄戦の犠牲の多さを根拠の一つにしている。

連合軍側の作戦名は「アイスバーグ(氷山)作戦

なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではない。現在日本領でないが当時は日本領であった北海道占守における「占守島の戦い」や樺太全域における「樺太の戦い」があり、また現在日本領である東京都硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため「一の地上戦」という認識は必ずしも正確ではない。

カイロ会談、両軍の準備

1943年11月22日エジプト首都カイロ連合軍の首が集まって会談を行った。この時、ルーズベルト大統領チャーチル首相が対日戦の打ち合わせをし、インド洋と中部太平洋の二方面から協同攻撃を実施すると約束した。

しかし1944年に入ると連合軍の侵攻や作戦較的く進んだため、カイロ会談で定めた計画に修正を加える必要が出てきた。再検討の結果、台湾攻略して日本本土攻撃の足がかりにする「土手作戦」が採用され、統合参謀本部は同年3月チェスター・ニミッツ提督1945年初頭を途に実施できるよう準備をめた。しかしバックナー陸軍中将は「太平洋で使用できる補給部隊支援部隊が不足している」として作戦中止を進言。これに太平洋地域陸軍部隊ミラード・F・ハーモン中将と、参謀本部のアーネスト・J・キング元帥が同調。土手作戦は中止となり、代わりに攻略標となったのがルソンと硫黄島、そして沖縄であった。

沖縄本島は、連合軍にとっても魅的なであった。日本本土をすにはどうしても邪魔になるが、もし奪取に成功すれば日本本土のの先で攻撃軍の訓練が可できる優れた基地を得られる。また沖縄と本土の距離は短く、爆撃機を飛ばすには打ってつけの立地だった。おまけに艦隊の停泊が可中城湾と金武湾まで付いてくる。まさに喉から手が出るほど欲しいだったのだ。

迎え撃つ日本側も沖縄の重要性は理解していた。1944年3月陸軍沖縄防衛を担う第32軍を創設。中国大陸朝鮮日本本土から兵がかき集められ、翌4月沖縄本島と周辺の々へ派遣された。あ号作戦に伴って内地からタウイタウイ泊地に向かう軍艦に兵や物資を載せ、緊急輸送を実施。まず最初に精鋭の第9師団が到着し、第32軍の中核に据えられた(しかし第9師団は後に生起したレイテの戦いに抽出され、その埋めはされなかった)。6月には九州で編成された独立混成第44旅団が沖縄派遣されたが、中で潜水艦の雷撃に遭い、4000名近くが戦死。生存者600名程度のみが的地に到着する有様だった。損失を埋めすべく、独立混成第15連隊が輸された。続いて沖縄に配備されたのは、満州に駐屯していた第24師団であった。訓練は充分に行われていたが未だ実戦は経験しておらず、また太平洋々の戦を増強するために何度も戦の抽出が行われていて、抜きとなっていた。それでも第24師団は第32軍の最大戦で、本土から細々と増援が送られて沖縄戦までに定数を満たした。

疎開、対馬丸撃沈

1944年7月7日サイパン守備隊が玉砕すると南西諸での戦闘が確実となってきた。

日本政府は緊急閣議を開き、南西諸の老幼婦女子10万人の疎開を決定し泉守紀沖縄県知事へ示した。戦闘及び労働がある壮年、警防団、医師疎開は原則として認めなかった。

もっとも知事自身が疎開に消極的だったこと、複数の飛行場建設に県民が動員され人手不足だったこと、家族が離ればなれになること、内地での生活することの不安があること、日本が南西諸の制権を失っていたことは沖縄県民でも知れ渡っており上の方が危険だと疎開う者が多かったことにより疎開はあまり進まなかった。

そうした最中に1944年8月22日九州へ向かっていた学童疎開対馬丸」がトカラ列島悪石島付近で米軍魚雷により撃沈してしまう。乗者1661人のうち、1484人が死亡した。「対馬丸」撃沈は沖縄県民を含む日本国民には秘密にされた。後の10・10空襲沖縄県にいても危険だと実感した県民が増え、以降は疎開が増加した。

9月15日米軍がペリリューとモロタイに上陸。これを機に大本営台湾沖縄小笠原のいずれかに連合軍が1945年までに襲来すると判断し、準備を急いだ。

10・10空襲(十・十空襲)

1944年10月10日に南西諸各地、特に沖縄本島都市、飛行場、港湾とが5回にわたって米海軍艦載機による襲を受けた。この襲により非戦闘員を含む少なくとも668人が死亡、旧那覇市では90屋が焼失するなど大きな被害が出た。ちなみに首里城は当時の那覇市に含まれていなかったので、被害を免れている。

米軍は同時に地上写真を撮して後の上陸戦に向けて情報収集も行ったようである。

1971年復活した那覇大綱挽の開催日は体育の日に合わせたのではなく10・10空襲の日に合わせたものである。

日本軍の戦備

大本営は、沖縄での戦いは地戦になると考えていたため、特別強戦車隊は配備しなかった。それでも満州戦車第2師団の一部を抽出し、第27連隊として沖縄に配備。第32軍揮下に入った。

1944年10月18日アメリカ軍フィリピンレイテ湾に上陸。フィリピンの戦いが生起した。しかしレイテ沖海戦に敗れ、地上での戦いも敗色濃厚となり、フィリピンへ増援を送る事が出来なくなった。そういった増援部隊沖縄に配置転換となり、砲兵が急に膨れ上がった。こういった砲兵は一第5砲兵師団和田孝助中将揮下に入れ、揮系統の混乱を防いだ。

中将は後方戦の整備にも注した。住民から志願を募って戦を集め、防衛隊を編成。兵は1万7000名から2万名と言われている。彼らは陸軍の下で訓練を受け、沖縄戦では陸軍に編入された。沖縄14歳以下の男子青年義勇隊として編成され、鉄血勤皇隊と呼ばれた。彼らは後方の通信隊に配属されたが、一部は前線に駆り出されている。

こうして第32軍は約10万の戦を用意した。内訳は6万7000名の正規兵、約9000名の根拠地隊、そして約2万4000名の沖縄県民であった。

第32軍は、アメリカ軍の物量を思い知っていた。このため艦砲射撃の標的になりやすい施設や防御地は内陸に配置し、海岸線は放棄。敵を内陸に引きつけてから反撃する戦法が採られた。この戦法は少し前の硫黄島攻防戦で栗林中将が実践し、連合軍に多大な出血を強いていた。また沖縄の墓は地下に造られる文化を利用し、即席の防壕とした。加えて中に狙撃兵を配置。沖縄の地形は、守る側に有利だった。防御に適した地形には次々に地が作られ、各砲兵地が連絡し合えるよう地下道が四方八方に伸びていた。天然と人工の障害物を巧みに使い分け、撃しやすい場所にアメリカ軍が来るよう工夫された。洞窟の入り口には機関銃、重迫撃砲、野が配置され、それぞれが全に統率されていた。大きな洞窟には病院や兵営、戦闘揮所が置かれ、襲や艦砲射撃から身を守る防として機。戦の大半は南部に集中配備されたが、北部は手薄だった。嘉手納飛行場や読飛行場などを防衛するだけの戦がなく、北部一帯は切り捨てる予定だったのだ。アメリカ軍は飛行場を占領するだろうから、その妨のために150mmが飛行場を睨んでいた。アメリカ軍の上陸をいちく察知すべく、内陸の各所に特設の偵察隊を配置。士気を鼓舞するために中将スローガンを制定。「1機で1艦を」「1艇で1を」「一人十殺」などが作られた。

第32軍底的な戦闘準備及び配置転換は、アメリカ軍にも伝わっていた。後方部隊にまで不安が広がり、一部の兵が不安を日記っている。

1945年1月3日と翌4日、22日に、機動部隊による襲が発生。爆撃12時間に及んだ。また潜水艦や敵艦が沖縄周辺で遊し、日本本土との連絡は断たれつつあった。2月中旬頃にはもう全に孤立してしまった。上陸の時が迫っているのは、にも明らかだった。

アメリカ軍の戦備

作戦揮を執るニミッツ提督は、1944年10月25日に氷山作戦の計画書を各指揮官に配布。統合参謀本部は、この作戦のために55万の戦を動員。これは史上最大の作戦と呼ばれたノルマンディ上陸より多い兵数であった。支援を担当するスプルーアンス提督率いる第5艦隊は改装を含め空母40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、その他数に及ぶ補助艦艇を保有していた。上陸を担当するのはバックナー陸軍中将が率いる第10軍。彼には地の破壊以外にも占領地域の守備も請け負っていた。

アメリカ軍作戦は、まず読と嘉手納飛行場を速やかに占領し、沖縄の制権を奪取する事だった。上陸予定日は1945年3月1日に定められていたが、二週間延期となって15日になった。その後ニミッツ提督によって更に延期され、4月1日にまでずれ込んだ。フィリピン攻略に参加したマッカーサーの艦艇を参加させるかどうかで悩んでいたようである。

氷山作戦に割り当てられた艦艇や兵太平洋に広く分散していたため、第10軍は合同演習が出来なかった。そこで第10軍は訓練に関する導や要綱を出し、各軍団長や師団長が現地で訓練させる手法を採った。参加する部隊はいずれも粒いで、大規模な上陸作戦こそ経験していないものの実戦経験豊富なベテランで占められた。レイの第24軍団サイパンの第2兵師団は、日本軍掃討の合間に訓練を行った。

沖縄を守備する日本兵の数は当初4万8600名と推定していたが、1945年1月に6万6000名に修正。更に増援が到着しているならば8万7000名に達しているかもしれないと判断した。攻撃してくる日本軍機は3000機を想定し、沖縄には特攻雷撃艇の部隊が存在している事も把握していた。

沖縄戦

慶良間諸島上陸

1945年3月17日硫黄島が陥落したことにより米軍は本格的に矛先を南西諸へ向けることが出来るようになる。

レイテから第77、第7、第96歩兵師団を乗せた輸送団が出航。時同じくしてガダルカナルとパブブで第3兵師団が乗し、前進拠点ウルシーへと向かう。ここで大破したエセックス級空母フランクリン撃し、兵員は一様に不安を抱いた。3月25日ウルシーを出発し沖縄方面へと向かった。

3月23日24日に米軍襲と艦砲射撃で慶良間諸を攻撃。26日には座間味、慶留間に上陸したが、ここで日本軍の最初の反撃が行われた。先から飛び立った第8飛行師団が同日未明に特攻を仕掛けてきた。すかさずイギリス艦隊が先を攻撃し、飛行場を使用不能にして化した。沖縄本島からも3回に渡って特攻機が飛来したが、連絡機や練習機まで使った理な特攻だったため、29日に沖縄航空は消滅した。だが連合軍に与えた損も意外と大きく、旗艦インディアナポリスを含む6隻が損傷。10隻が特攻機の至近突入で損傷し、2隻が触雷で沈没した。しかし作戦を遅らせる程度のは与えられなかった。

3月27日、第77歩兵師団が渡嘉敷に上陸した。内にあった350隻の特攻艇が破壊・放置されていたという。慶良間列特攻艇の秘密基地で、輸送を攻撃する任務が与えられていたが、アメリカ軍の不意の上陸により役割を果たす前に失陥した。同地には975名の日本兵がいたが、戦闘を持っていたのは特攻艇の乗員である約300名程度であった。抵抗は少なく、あっと言う間に三島が占領された。兵の戦死者は31名、負傷者81名。対する日本兵は530名が戦死、捕虜は121名以上、住民も195名以上が捕まった。逃げ延びた部隊は第32軍と連絡を取り合っていたが、やがて全滅するか捕縛された。

座間味では135人、慶留間では数十人、屋嘉では約10人、渡嘉敷では330人が強制集団死・集団自決に追い込まれた。集団自決の原因としては「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降よりも死を選ぶ者が多かったこと、降した後に日本が勝ったらスパイとされてしまう恐れがあったことが挙げられるが、軍による強制もあったという言もある。

3月31日、占領された慶良間諸155mm、通称ロングトムが揚陸され、沖縄本島への撃準備を開始した。第10軍の上陸支援のために事前撃を加える予定だったが、第32軍は巧妙に戦を隠していて、撃する相手が見つからなかった。結局、日本軍の配置が分かったのは本上陸後の事だった。

沖縄本島へ上陸

4月1日午前4時6分、ターナー中将は上陸を命。一斉に上陸艇や輸送が動き始めた。明けを迎えた頃、特攻機が飛来。輸送ヒンスデールと戦車揚陸が突入を受け、爆発。戦死者7名と37名の負傷者、8名の行方不明者を出した。これが沖縄戦初の兵の戦死者である。他にも戦艦ウェストバージニアやその他艦艇に損を与えている。

アメリカ軍戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、慶ロングトムに猛な援護射撃を行わせ、沖縄本島西海にある読谷村渡具知海岸へ上陸。しかし地上での持久戦に持ち込む方針だった日本軍は散発的な反撃しか行わなかった。慶に対する撃と、上陸部隊の作業を妨するため4時間の射撃を加えた程度だった。このためアメリカ軍ど損を受けずに上陸を遂行。その日のうちに読・嘉手納の両飛行場を占領した。あまりにすんなり上陸できたことから米軍兵士は「エイプリルフールか?」と不思議がったという。

4月2日午前7時30分、上陸したアメリカ軍第10軍は前進を開始。快晴で、命じられた施設の占領をして進軍を続ける。相変わらず日本軍抵抗は少ない。だが、進んでいくたびに抵抗が強くなっていく。最初に第10軍の前に立ちふさがったのは、住民からなる防衛隊であった。当然ながら錬度は低く、900名以上が戦死。26名を捕虜となった。アメリカ軍は捕虜から情報を聞き出そうとしたが、「日本軍は南へ移動した」という事くらいしか分からなかった。この日のうちに第7歩兵師団第17連隊が、中城湾を見下ろす高地を占領した。

4月3日には米軍沖縄本島東海中城湾に達し、日本軍は南北に分断された。しかし速過ぎる進軍は補給計画に狂いが生じ、補給部隊が四苦八苦。また第32軍所在は未だ掴めず、言い知れぬ不安が兵の間に広がっていた。不気味な沈黙を保ち続ける日本軍。対する第10軍の部隊は南北に分かれ、進撃を再開。地を制圧しつつ、要所を占領していった。あまりの好調っぷりにアメリカ軍作戦スケジュールを切り上げ、兵士の間にも楽観ムードが漂い始めた。

4月5日には海軍政府布告第1号「権限の停止」(通称「ニミッツ布告」)を布し、米軍占領地の沖縄住民に対して日本行政権が停止されたことを通告し軍政を敷いた。

北部の戦い

沖縄北部の攻撃を担当していたのは第6兵師団であった。戦車を保有していた同師団は10日間で40km以上を踏破。人工・天然障害を物ともせず強行軍を続けた。元々手薄だっただけに日本兵の攻撃は少なく、4月13日には辺土を占領。しかし本部(もとべ)半島八重岳には日本兵1500名が配備されており、また第6兵師団は戦配置を把握していなかった。八重岳を守るのは大佐率いる守備隊であった。高所を押さえて地の利を得、さらに複数の防御地を構築していた土隊は巧みに戦配置がなされていた。第6兵師団の攻撃をよく押さえ、進撃の足を遅らせた。開けた土地には狙撃兵を配置し、海兵隊の将校が来るまで耐強く待った。そして多くの将校を餌食にした。

しかし英語を話せる沖縄県民を捕虜にした事で、第6兵師団に土隊の配置がバレてしまう。さっそく4月14日八重岳への攻撃が開始される。高所から日本兵が機関銃迫撃砲を放つが、兵の動きは鈍らなかった。しい地争奪戦の末、4月15日の時点で1120名以上の日本軍将兵が戦死。残りは洞窟内に閉じ込められた。翌16日、兵が八重岳の山頂に到達。土隊の反撃を退け、掃討戦に移行した。八重岳を越えた兵は北方日本軍を討伐し、4月20日沖縄北端へ到達。シェファード師団長は北部の組織的抵抗は終わったと宣言し、北部はアメリカ軍の手に落ちた。第6兵師団の戦死者は207名、負傷者757名、行方不明者6名を出し、日本側は2000名以上の戦死者を出した。その大半は地を堅持しようとした頑強な者たちだったと言われている。

への攻撃は4月16日明に開始された。しい上陸支援撃が行われ、同日中アメリカ軍が上陸した。上陸当初の抵抗は少なかったが、突然日本軍抵抗が強くなる。洞窟や墓に隠れて持久戦を狙う日本兵は屈強で、1mを争う戦が展開された。には7000名の日本兵がいたが、これまた巧みに隠されていてアメリカ軍は戦を過小評価していた。4月19日日本軍の本がある山で戦闘が始まる。当然ながら日本軍は高所にり、本へと続くを見下ろせる位置に展開していた。攻撃を担当した第77歩兵師団は出血を強いられ、戦死者239名と負傷者879名という沖縄戦初の大損をこうむった。一連の戦いで有名な従軍記者アーニーパイルも機関銃に撃たれて戦死している。しかし日本側も4706名が戦死し、149名が捕虜となった。4月21日アメリカ軍山の陥落によってを占領したと発表。向こう4日間は敗残兵狩りが行われた。

北部の要衝を制圧したことでアメリカ軍沖縄本島南部攻略に専念できるようになった。ちなみにの飛行場は日本兵に破壊されていた。

東部の戦い

第6兵師団が北方へ進撃している頃、第1兵師団は橋頭堡からの中央部を通って東進していた。

4月6日に勝連半島に達し、藪知(やぶち)を占領した。あまり抵抗を受けなかった第1兵師団は、相手をめて後方に放置してきた日本軍拠点を潰して回った。日本軍は、沈黙を続けている。第32軍部がある首里地区は曇天に覆われる日が多く、アメリカ軍の上偵察から戦を隠し続けていた。おかげで未だ防衛線の実情を把握できずにいた。

同じく4月6日午前2時第10軍は金武湾の占領を掲げて侵攻を開始した。第32軍がいるであろう南部との戦いに備え、後顧の憂いを断つ必要が出てきたのである。湾内にある6つの小島を占領すべく、海兵隊が上陸してきたが、すかさず日本軍が反撃。迫撃砲機関銃の猛攻を受けて、海兵隊は撃退された。別のでも上陸作戦が開始され、4月10日午前8時40分に第27歩兵師団第105連隊第3大隊がに上陸。事前しい爆撃を加えていたにも関わらず元気日本軍が迎撃した。になっても戦闘は終わらず、第3大隊は大損を負って撃退された。しかし4月11日午後3時30分頃には組織的抵抗は終わり、を失陥。金武湾を支配下に置いたアメリカ軍は、良好な艦隊停泊地を獲得。更に中城湾への足がかりをも得た。

南部の戦い

第32軍が控える南部への攻撃は、ホッジ陸軍少将率いる第24軍団が担当した。

南進して数日が経つと、日本軍の強固な防衛網が姿を現した。進軍を阻まれた第24軍団は、4月7日支援を受ける。戦艦ニューヨーク航空攻撃、四個砲兵大隊が攻撃を加えたが、嘉数にすら到達できない。翌8日と9日は荒となり、しいに紛れて日本軍の少数り込み攻撃が行われた。矢面に立たされた第96歩兵師団は、ところどころで撃退される。4月10日にもと陸から援護射撃を受けたが、それでも日までに300mしか前進できなかった。

4月12日、13日、14日の深夜日本軍が第24軍団に突撃を仕掛けたが、機関銃迫撃砲で1548名の戦死者を出した。何とか猛攻をいだ第24軍団だったが、首里の防衛線の強固さと砲兵の不足から手詰まりになりつつあった。ホッジ少将海兵隊砲兵を抽出し、4月19日を総攻撃の日に定めて準備撃を開始した。更に航空隊は482トン爆弾3400発のロケット弾、70万発をえる機関銃日本軍地に浴びせた。4月19日午前6時、予定通り総攻撃を実施。27個大隊の砲兵が、ありとあらゆる火を使って猛攻を仕掛け、更に火力支援として357機の航空機全な統率のもと攻撃に加わった。この恐るべき弾のに、アメリカ軍日本兵の全滅を確信した。しかし、実際にはど損を与えられていなかった。彼らは強固な洞窟に守られていたのである。楽観的に進軍を再開した兵は、猛な機掃射を受けて現実を認識する羽になる。進軍の足は全に止まった。

嘉数高地の攻略は第24軍団標であったが、こちらも日本軍の猛攻で行き詰まっていた。そこで第24軍団シャーマン戦車30輌による支援を受け、強引に突破しようと試みた。ところが日本軍に先読みされ、正確な射撃自爆攻撃で22輌が撃破される大損をこうむって撃退された。何とかの西端まで達したアメリカ軍であったが、嘉数には全く手が出せなかった。一方、第32軍4月23日と翌24日の間にこっそりと退却を開始。これは戦線を整理したい中将の判断だったとされる。日本軍が後退した事で、ようやく嘉数を占領できたアメリカ軍であった。あまりにも損が大きかったため、第27歩兵師団は後退。代わりに第1兵師団が送られた。

日本軍の反撃

藤岡中将率いる第62師団は、アメリカ軍の猛爆によく耐えて戦線を維持していた。4月末までに戦が半減したが、それでも士気は旺盛だった。後方にはまだ第24師団独立混成第44旅団の残存戦、第5砲兵団などが温存されていて、相当な戦を保持していたからだ。これに伴って第32軍内で反撃・攻勢を望むが大きくなり、南東地区への米軍上陸を警して置いておいた第24師団と第44旅団を首里地区に移動させた。そしてアメリカ軍の先鋒である第24軍と、普天間にあるとされる第10軍の部粉砕を企図した。

5月4日日本軍添・西原米軍へ総攻撃を仕掛ける。同時に米軍の側面を突くべく、逆上陸も試みられた。総攻撃に呼応して神風特攻隊による攻撃も行われ、合いでも戦闘が開始された。巡洋艦バーミンガム空母サンガモン、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、機雷敷設艦1隻が損傷し、米海軍は戦死者91名と負傷者280名、行方不明283名の損を出した。午前4時30分、第24軍団に向けて数千発に及ぶ迫撃砲が放たれ、日本兵が一挙に突撃。ところが艦砲射撃航空攻撃、砲兵16個大隊の逆襲により敗退。逆上陸を試みた別働隊も壊滅させられ、全線で攻勢に失敗した日本は約5000人、米軍は700人が戦死した。この時、戦死した日本兵はベテランいで、兵の75%を喪失。砲兵の数は半減し、火59門は全て失われた。以降、アメリカ軍に有効な火力を浴びせられなくなる。

総攻撃が失敗した後、日本軍牛島満官率いる第32軍部が首里城地下に掘った壕で持久戦の構え、大田少将率いる沖縄方面根拠地隊が小地区に掘った壕に籠もることにした。長参謀長は「この沖縄作戦の成功についてのあらゆる希望が消えた。が第32軍敗北は時間の問題である」と述べた。

アメリカ軍、首里に迫る

米軍は第1兵師団を先頭にし、首里をす。対する日本軍は勢理客(じちゃく)、内間(うちま)から沢岻(たくし)の間、安波(あわちゃ)に防衛線を敷いて迎撃。5月6日、まず第1兵師団はが降りしきる中、沢岻の突破を試みたが、正面と側面から撃を受けて失敗した。安波攻略には第5兵連隊が投入されたが、砲兵支援下にあったにも関わらず第32軍の頑強な防御にぶつかって前進が困難となっていた。困ったアメリカ軍火炎放射器と爆破班を使い、一つずつ地を潰していったが、それでも遅々として進まなかった。

5月8日、遠く離れたヨーロッパナチスドイツが降欧州戦線は終結し、戦勝パレードが行われていた。沖縄を攻囲する連合軍艦隊も礼を撃ったり、甲上で喜んだりしていた。しかし最前線にはそんな余裕はかった。両軍とも、冷たいに打たれながらの前の戦闘に死を尽くしていた。「ドイツが降したのに何故日本は戦い続けるのか」という疑問が兵の間に広がり、厭戦気分が染まっていく。

5月9日、再び安波に第1兵師団が突撃。緒戦はアメリカ軍が制し、深くにまで侵攻したが、やがて側面から日本軍撃を受けて停止。その日のにはり込み攻撃まで行われ、凄まじい兵戦が行われた。かろうじて機関銃で撃退し、翌10日午前8時に前進を再開した。沢岻への攻撃も続行されたが、日本軍の猛反撃により第5兵連隊の損は見る見るうちに増加。多大な対価を払い、砲兵戦車と火炎放射の支援でようやく安波中心部を制圧した。5月11日頃には安波全域が占領された。13日には沢岻も失陥し、第32軍の防御の一が崩れた。

5月14日午前5時30分、第10軍は一斉に火を放った。首里に通じる東西のを確保し、部のある首里城を制圧するためである。部近隣だけあって日本軍の反撃もしく、体当たり攻撃でシャーマン戦車16輌が破壊された。少し前の5月12日からは首里城西方の最終防衛ラインで、シュガーローフの戦いが生起。わずか20mの小高い丘を巡り、日双方が戦を繰り広げた。日本軍シュガーローフ、南側のホースシュア、東側のハーフムーンに5000名の兵を置き、また地下にトンネルを作って輸送や連絡が容易になるよう工夫していた。突破をアメリカ軍だったが、身を隠す所が地で十字火を受け、大損を受ける。特に八九式重擲弾筒が猛威を振るい、位置をさらし機関銃分隊が全滅したケースも多々あった。血で血を洗う攻防戦の末、18日頃にシュガーローフは占領された。しかしハーフムーンの戦徹底抗戦を続け、更なる出血を強いた。同日中安里米軍の手に落ちた。シュガーローフの失陥により、官は5月22日に摩文仁方面への撤退を決定する。

首里放棄については軍幹部の中でも意見が分かれたようで、第62師団長藤岡武雄中将も反対を表明した。数千の重傷者を放置するのはびないのと、軍が南へ撤退すれば市民が巻き込まれる事がな理由だった。しかし中将は諸々の反対意見を却下し、南部への撤退を強行した。

5月23日深夜、撤退する部隊が密かに首里を離れた。運べる負傷者と医薬品も一緒に持ち出された。翌24日には歩ける負傷者が撤退を開始。重傷者はモルヒネ注射されるか、あるいは放置されて苦しんだ末に死んでいった。5月29日包囲網が狭まる中で隊が撤退。翌30日の明けには大部分が脱出した。

首里の失陥

アメリカ軍が首里に近付くにつれ、が悪化。5月21日頃から降り始めたは長となり、第1兵師団の進撃速度は衰えた。地面がぬかるみ、首里の東方から攻めていた第24軍団行動不能に陥る。まるでが第32軍に味方しているかのようだった。しかし翌22日に、大里(おざと)高地が米軍に占領され、旧那覇市地への侵入を許してしまった。

5月28日、第32軍が撤退した首里に突入、5月31には握した。この時、カロライナ出身の兵士の上には星条旗ではなく南部連邦の旗を掲げて少し問題になっている。ちなみにバックナー少将率いる部隊首里城全に包囲していたが、豪雨に紛れて第32軍部は脱出に成功している。

首里の失陥によって沖縄戦は一つの節を迎えた。6万2548名の日本兵が戦死し、465名が捕虜となった。米軍の死者は5309名、負傷者2万3909名、行方不明者は346名だった。

帝國海軍最後の拠点、小禄半島

6月1日アメリカ軍の第6兵師団は小半島に対する上陸準備を開始した。小には帝國海軍拠点があり、大田海軍少将率いる守備隊が展開していた。偵察の結果、小日本軍は脆弱だと判定された。6月4日、小日本軍地に対し熾撃が行われた。75mm野から36cm弾まで4200発以上の弾が撃ち込まれた。午前6時72隻の上陸用舟艇に分乗し、海兵隊員が上陸した。日本軍抵抗は、散発的な機関銃掃射程度だった。アメリカ軍は三個大隊で包囲を開始。勢いづいた米軍は進撃速度を速めたが、険しい地形に阻まれて動けなくなる。そこへ大量の機関銃で武装した日本兵が逆襲に転じ、双方に甚大な被害が及んだ。アメリカ軍は、小日本軍を過小評価していた事を思い知らされた。

6月6日大田少将率いる守備隊を喜屋武半島から分断され、小半島南部へと追いやられる。大田少将東京別電を送った。翌7日、第6兵師団が日本海軍部壕を攻めるが日本軍は耐えきった。8日と9日の戦闘において日本軍守備隊は驚異的なりを見せ、第6兵師団を全く前進させなかった。アメリカ側の記録によると「険しい地形としい抵抗のため前進が捗らない。日本兵一人ひとり機関銃を持っているようで、軽迫撃砲や重迫撃砲まで飛んでくる。が軍の被害は増加している」とられている。米軍シェファード少将は南・南東からの攻撃に作戦を切り替え、6月10日から翌11日にかけて総攻撃を加える。死地に追いやられた日本軍は猛反撃し、米軍へ首里戦線以上の損を与えるも、6月12日夕刻に最後の拠点を敵に奪取された。13日、歩兵二個大隊が掃討を行い、茂みに隠れていた日本兵を射殺して回った。彼らは大人しく投降するか、自決するか、最後まで抵抗した。約200名が捕虜になったとされる。6月13日大田少将ら幕僚が自決し、シェファート少将17時50分に戦闘の終結を報告した。海兵隊の死傷者は1608名にのぼった。

苦戦するアメリカ軍

第6兵師団が小に上陸した6月4日、第1兵師団は那覇と与那原を結ぶ線から1600m前進した。長く降るで地面はぬかるみ、後方のブルドーザーや補給トラックは何度も足を取られた。6月5日深夜に一旦が止んだが、あまり太陽が顔を出さなかったので道路かなかった。また第1兵師団の行く手には多数の日本軍地があり、出来るだけ時間を稼ぐよう命じられていた。このため第1兵師団の進撃速度は遅々としていた。しかし時間の少なさから急造の地しかなく、アメリカ軍の攻撃を長く食い止める事は出来なかった。そして6月7日となり、第1兵師団は急進。糸満北方西海に到達し、小半島大田部隊南部の第32軍を分断する。本丸の摩文仁を前に多くの死傷者が出ると予測したアメリカ軍6月11日、糸満北方1800mの地点に飛行場を建設。連絡機を発着できるようにし、負傷者の搬送に使った。同日、中将サイモン・ボリヴァーバックナー中将から降勧告を受けたが、「武士として勧告を受け入れる訳にはいかない」と大笑いしながら黙殺した。

第1兵師団第7兵連隊はしさを増す日本軍抵抗の中、糸満東方に進出。照屋(てら)の集落を掃討して南の台地に取った。眼前には国吉(くにし)高地が広がっていたが、ここには日本軍地が置かれていた。高地そのものが要で防御側に大変有利、しかも日本軍の対戦車が極めて有効な場所に配備されてあった。地に至るは2本しかなく、遮蔽物もいため、高所を押さえている日本兵は苦も兵を射撃できた。第7兵連隊は6月11日正午より攻撃を開始したが、すぐに行き詰まった。このままでは被害が拡大するだけだと連隊長は判断し、第7兵連隊は後退した。翌12日午前3時30分、国吉高地への攻撃が再開された。これは全な奇襲となり、午前5時に高地の尾根に到達。日本軍より高所を取る形となった。奇襲から立ち直った日本軍守備隊は猛な反撃を実施、後続の海兵隊部隊弾が降り注いだ。後に続くはずだった海兵隊は撃退され、尾根にいる第7兵連隊は孤立。パラシュート降下で補給品を送る羽になった。海兵隊員が地に落ちた補給物資を取りに行ったところ、日本軍狙撃手に撃たれる事態が多数発生。ある日本狙撃手は殺されるまでに31名の兵を死傷させたという。負傷者を搬送しにきたシャーマン戦車には狙撃対策として袋が巻きつけられていた。

6月14日午前3時30分、第1兵師団が国吉高地を攻撃。30分に渡る準備撃を経て、第7兵連隊が孤立する尾根をして進撃した。二個小隊が尾根に到達したが、残りの部隊日本軍の正確な撃を受けて登頂に失敗。はるか下方で弾の驟にさらされていた。になると日本軍撃はしくなり、二個小隊も孤立させられた。翌15日の明けになっても、高地の70mまでしか占領できなかった。神の如き抵抗をする日本軍守備隊に手を焼いたアメリカ軍6月15日と16日に爆撃艦砲射撃に加え、火炎放射戦車と通常戦車が攻撃を加えたが、国吉高地の日本兵はピンピンしていた。それでも困難な前進を続け、日本軍地を一つずつ潰していった。泥沼と化した国吉高地を巡る戦闘は、突然終息に向かった。6月16日の日までに栄里へのが切り開かれ、高地を守る守備隊が孤立してしまったのだ。それでも一部の部隊抵抗を続けたが、第1兵師団に掃討された。

6月17日午前3時アメリカ軍栄里高地の手前まで前進。正午頃に頂上を占領し、集落もアメリカ軍の手に落ちた。次なる標は小波蔵(くわんが)高地だった。だがここは栄里のように上手く行かなかった。小波蔵・真壁間を見下ろす高地から日本軍の猛射撃を受け、になっても占領を許さなかった。そして日本軍の第22歩兵連隊が夜襲を仕掛けたが、これは失敗に終わって全滅してしまった。

バックナー中将戦死

6月18日、第10軍バックナー中将前線視察に訪れていた。第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐は「これより前線は行かれぬよう。日本軍地から弾が飛んできます」と忠告したが、聞き入れられなかった。その約1時間後、ロバーツ大佐狙撃されて死亡した。そうとは知らずにバックナー中将栄里にある第8連隊第3大隊の監視に到着。前方の戦闘状況を視察した。

数分も経たないうちに、日本軍が放った47mm対戦車弾が付近に着弾。続けざまに5発の弾が飛来し、飛散した破片がバックナー中将の胸に突き刺さった。致命傷を負った彼は10分後に死亡し、最高官の戦死は参謀長によって直ちにニミッツ提督へと報告された。この光景撃したアメリカ兵は、付近の住民が合図を送ったと断定して数十人を射殺している。6月19日、後任に第3兵師団長ガイガー少将が据えられた。

バックナー中将の死には諸説あり、狙撃されたとも言われている(1954年大将に昇進)。2020年現在米軍史上において最高位の階級での戦死である。

最後の戦い

残念なことに、沖縄戦全体の民間人の犠牲は日本軍敗北の戦局が決定的になった首里陥落以降の方が多い。日本軍民間人を守る余裕がいこと、軍に付いていった方が安全だと信じた住民が多かったこと、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降よりも死を選ぶ者が多かったこと、事前疎開が追いつかなかったこと、官ら現地軍も東京日本政府大本営徹底抗戦にこだわったこと、バックナー中将も強硬すぎたこと、バックナー中将戦死で海兵隊暴走差別虐殺に走ったこと、などが原因と考えられる。

6月18日夕刻、中将は最後の軍命を発。各地に留まり、現場の上官に従い、祖国のために最後まで戦うよう命じた。同時に台湾の第10方面軍と大本営宛てに別電を打ち、別れを告げた。翌19日、第10方面軍は第32軍に感状を授与している。

6月19日アメリカ軍戦車や摩文仁の第32軍部に向けて撃。最後の戦いが幕を開けた。例によって日本側の抵抗は凄まじく、第96師団の副師団長イーズリー准将機関銃に撃たれて戦死した。この日の、第32軍部では別の宴が行われ、参謀ら20名が後方で撹乱を行うべく民間人に扮して脱出を図ったが、全員行方不明か戦死している。6月21日ガイガー少将が沖縄戦の終結を宣言。ニミッツ提督も同様に終結を宣言したが、未だ散発的に戦闘が行われていた。翌22日午前2時、第62師団長歩兵第63旅団長、参謀長以下要員が自決正午頃には第32軍部の衛兵全滅し、摩文仁からが聞こえなくなった。

6月23日午前4時30分、官や長勇参謀長が摩文仁の壕で自決。これによって日本軍の組織的戦闘は終結した。この6月23日は後に沖縄県で「慰霊の日」となった。その後も戦闘自体は続いていて、6月26日沖縄県知事が死亡した。7月2日米軍沖縄作戦の終了を宣言したが、まだ第24師団歩兵第34連隊が生き残っており、全に終結したのは降文書に署名した9月7日の事だった。

アメリカ軍の損は戦死7374名、行方不明239名、負傷者3万1807名となった。第10軍の死傷者数は総兵数の60に達したという。航空機の喪失数はイギリス軍も含め763機、撃沈された艦は36隻(うち26隻が特攻機の戦果)、損傷は368隻にのぼった。全期間を通して撃沈された連合軍の艦艇のうち、2割が沖縄周辺に集中している。戦車は221輌を喪失し、94輌(火炎放射戦車は12輌)が全損した。

ひめゆり学徒隊

沖縄県立第一高等女学校沖縄模範学校女子部から生徒222人・教師18人が南風原の沖縄陸軍病院へ動員された。

沖縄県立第一高等女学校には校友会誌「」、沖縄模範学校女子部は校友会誌「百合」があり、二つの校友会誌が統一された際に「百合」と名付けられた事に由来して「百合学徒隊」と呼ばれた(平仮名表記が流になったのは戦後)。

首里放棄後は軍と共に摩文仁へ南下。6月18日に解散命が出るが、その後の戦闘自決により最終的に動員されたうち生徒123人、教師13人が死亡した。

伊江島上陸

には日本軍2700人(うち約1000人はから招集)、住民は外避難した約3000人を除いて約3000人がいた。

4月16日米軍が上陸し、4月18日にピューリッツァー賞受賞者の従軍記者アーニーパイル氏が日本兵に狙撃され戦死。4月21日には米軍が制圧。

米軍によれば日本兵を4706人殺したつもりが軍服を着た民間人だったというケースがあまりにも多く、1500人をえたという。

建物質屋だけを残し全て破壊された。その質屋は弾だらけのまま現在も残っている。

犠牲者数

人口約59万人(1944年;後の県外疎開で沖縄戦開始時には42万50万人に減っていたはずである)の沖縄県日本軍11万6400人(沖縄出身含む)と米軍54万8000人が交戦した。犠牲者数は沖縄県援護課によれば20万0656人(日本18万8136人、うち沖縄県出身者12万2228人(一般人9万4000人、軍人・軍属28,228人)、他都道府県出身兵 6万5908人、アメリカ1万2520人)だが、ここでは戦病死や餓死が含まれていないようである。沖縄県平和祈念公園内「平和の礎」には籍問わず24万1336人(2015年6月23日現在)の戦死者の名前が刻まれている(ただしこれは満州事変から終戦までの沖縄県出身戦死者を含んでいる)。

戦艦大和、海上特攻

詳細は坊ノ岬沖海戦戦艦大和の記事参照。

大和沖縄海岸に乗りあげて台としてアメリカを迎え撃つ」天一号作戦として4月6日戦艦大和沖縄へ向けて徳山港を出港するが、途中の坊ノ米海軍第58任務部隊艦載機による猛攻撃を受け撃沈した。

日本側の戦死者は伊藤整一中将(死後、大将)、有賀幸作大佐(死後、中将)ら3721人に上った。

特攻隊の活躍

詳細は神風特攻隊の記事参照。

沖縄戦でも神風特別攻撃隊による攻撃が実行され、米海軍の損の多くは特攻隊によるものが占める結果となった。

戦艦大和運命を共にした伊藤整一大将息子伊藤中尉沖縄域で特攻作戦で戦死している。

石垣事件

石垣島陸軍航空兵捕虜3人が処刑された。関係者は戦後GHQによって戦犯裁判にかけられた。

日本政府が捕虜待遇に関するジュネーヴ条約を批准しなかった結果起きた、双方にとっての悲劇である。

久米島守備隊住民虐殺事件

詳しくは久米島守備隊住民虐殺事件参照。

久米島では6月23日の組織的戦闘終了後、鹿山正兵曹長率いる日本海軍通信隊・守備隊が「降勧告書」を持って来た民にスパイ容疑をかけ殺する事件が起きた。最終的に5件の犠牲者だけで民22人。一説では29人。

八重山疎開・八重山マラリア

八重山諸に来た日本軍3月頃から軍施設の建設と食糧確保のために各民を石垣島北部や西表疎開させた。畜は敵の食糧にしないためという名でほとんどが処分されたが、実際には一部が日本軍の食糧として流用された。

当時の石垣島北部や西表現在と違ってマラリアの危険が極めて高い土地であった。疎開先で民は次々とマラリア患、抗マラリアも最初から不足していた。帰後もマラリアを持ち込んでしまったことで戦後被害は続いた。農繁期の疎開事前畜処分による飢餓も重なり八重民は苦しむことになる。

八重山諸全体の人口は約3万人だったが、このうち1万6000人以上がマラリア患し3647人が死亡する大惨事となった。

山下虎雄自称する軍人の脅迫で西表へ全疎開した波照間出身者は特に犠牲者の割合が多く、民約1500人のうち90%以上がマラリア患、死亡者は477522人にのぼった。西表南風見田海岸には波照間民の強制疎開マラリア禍の記憶のため「忘石 ハテルシキナ」と刻まれた石碑がある。

疎開が軍命によるものかが曖昧だったため、戦後になって国家補償で問題が起きることとなる。

八重山平和祈念館展示問題

1999年石垣島に建っている八重平和祈念館の展示内容のうち、沖縄県の要請で「西表への軍命による強制退去」から「避難命」に書き換えられるなど旧日本軍責任が軽くなるような展示へ変えられていたことが判明した。

文化への影響

首里城

首里城10・10空襲被害は免れた(当時は首里内であり旧那覇市に含まれていない)。しかし日本陸軍第32軍首里城部を置き5月の攻防戦を繰り広げたことで、首里城だけでなく守門など周辺の史跡も所蔵文化財・工芸品も巻き添えとなり破壊し尽くされた。

1958年に守門が再建、1992年首里城が再建された。

鉄道

詳しくは沖縄県営鉄道の記事参照。

沖縄本島には鉄道路線があったが、全て沖縄戦で破壊され、戦後も復旧しなかった。

2003年に新路線で沖縄都市モノレールゆいレール)が開業した。

音楽

沖縄では戦後になって平和戦争テーマにした曲・歌が多数作られることになる。

泡盛

泡盛作りには発酵過程で麹菌を用いるのだが、戦争で失われてしまった。戦後間もなく佐久本政良氏が泡盛工場跡に埋まっていたニクブク(稲藁のむしろ)から麹菌を取り出し培養することに成功、泡盛作りは復活した。

1998年になって、戦前坂口謹一郎東京大学名誉教授が保管した別の麹菌が発見され、そこからも泡盛が造られるようになった。

遊郭

那覇市には琉球時代から遊郭があった。遊女に相当する尾類(ジュリ)が客を選べるなど、本土とは違う独自の遊郭文化があった。

遊郭10・10空襲で焼失。焼け出された尾類達は従軍慰安婦になる者も多かった。

戦後沖縄独自の遊郭文化ジュリ行列を残すのみでほぼ断絶し、それさえも売春の肯定になってしまうとする一部の女性人権団体の反発で中止されたことがある。

沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

沖縄戦敗北が確実となっていた6月6日大田海軍少将は以下のような電文を海軍次官宛に送った。(は不明箇所)

発 沖縄根拠地隊

宛 海軍次官

左ノ電次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信ナク二軍部又通信ノ余シトメラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニビズ

之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハド顧ミルニ暇ナカリキ

レドモ本職ノ知レル範囲ニテハ県民ハ壮年ノ全部ヲ防衛召集ニゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ爆撃屋ト財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防壕ニ避難尚爆撃ニ中ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ弾運ビ挺身込隊スラ申出ルモノア

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ牙ニ供セラルベシト子生別レヲ軍衛門ニ捨ツルアリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄キ重傷者ヲ助ケテニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ作戦ノ大転換アルノ中ニ遠隔地方ノ住居地区ヲセラレ輸送皆無ノ者黙々トシ中ヲ移動スルア

是ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハノ悪評ナキニシモアラザルモ)日本人トシテノ御奉ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□与ヘコトナクシテ本戦闘末期沖縄島ハ実情形

一木一焦土ト化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

大田少将6月13日自決、その後中将へ昇進した。

その後の沖縄

捕虜収容所

米軍に捕らえられた住民・日本兵は沖縄各地に設けられた16の収容所に分けられ、ハワイの収容所へ送られた者もいた。

収容所と言っても有刺線で囲まれた区域で、建物は良くてテントだった。食糧・衣服は支給されたが不充分で、飢餓やマラリアで命を失った者も多かった(少なくとも3000人)。

兵による強姦沖縄県民や朝鮮出身者による日本兵への報復リンチも起きた。

戦犯以外は1945年11月1947年には解放された。

八重山共和国(八重山自治会)

戦後しばらく米軍の上陸がく、政府状態に陥った上に飢餓とマラリアに苦しむ八重地方で、12月15日に有志が自治組織「八重自治会」を結成し、民主的手続きで会長宮良長詳氏、副会長宮城信範・吉野高善両氏を選出した。

8日後の12月23日八重山へもアメリカ権が及び、米軍政府下の八重支庁発足に伴い八重自治会は解散した。その支庁長に宮良長詳氏が就くなど自治会の組織が支庁に反映されている事を考慮すれば消滅ではなく組み込まれたという方が近いかもしれない。

自治会に上級政府が(法的にはともかく)事実上存在しない状態が8日間続いたこと、共和政的体制だったことから「八重山共和」とも呼ばれる。

米軍統治(アメリカ世)

散発的な戦闘は続いたものの日本が降した8月15日以降は米軍は本格的に沖縄を占領・統治する。アメリカ統治時代、俗に言うアメリカ世である。詳細はアメリカ世の記事参照。

戦争孤児

死亡、生き別れなどにより、疎開帰還者を含めて数千人の戦争孤児が発生した。

遺骨

全ての遺体埋葬されたとは限らない。現在も沖縄戦の遺が見つかることがある。

不発弾

沖縄県内には2050t2300tの不発弾が残っていると推定されていて、全て処理するにはあと7080年かかる量である。年に約1000個ほどが見つかっている。

1974年3月2日には那覇市タイ幼稚園近くで起きた爆発で幼児含む4人が死亡した。

沖縄戦の評価

全国戦災史実調査報告書における沖縄戦の扱い

戦災史実調総務省などが社団法人日本戦災遺族会(2010年解散)に委託して19772009年度に戦災に関する資料を調・収集したものであるが、沖縄戦はほとんど扱われていない。

2015年にこれを問題視した照屋寛徳衆院議員(沖縄県出身)の質問意書に対して安倍晋三内閣は「行政文書が残っておらず不明」とする答弁書を閣議決定した。沖縄県沖縄開発庁(現内閣府)が担当していたためとされるが、総務省は今後も政府として沖縄戦の調を行う予定はいとしている。

東京新聞:沖縄抜き「全国戦災史」 国の調査、戦後70年行われずexit

「強制集団死」か?「集団自決」か?

「強制集団死」という名称については、強制された自殺ではないから「強制」という名称は相応しくないという意見がある。

一方で「自決」というのは責任を取るか意思表示のためのものだから「集団自決」と呼ぶのは相応しくないという意見もある。

岩波書店・大江健三郎訴訟

作家大江健三郎著「沖縄ノートexit_nicoichiba」(岩波書店)の記述をめぐって、梅澤裕座間味戦隊長や故赤松嘉次渡嘉敷戦隊長の遺族・赤松秀一氏が大江氏・岩波書店名誉毀損で訴えた。

最高裁まで持ち込まれ、2011年4月22日に原告敗訴が確定した。

教科書検定・沖縄県民大会

岩波書店大江健三郎訴訟は2006年教科書検定へ飛び火し、高校日本史教科書から「軍強制による集団死」という記述が消えた。

これに反発して2007年9月29日に「教科書検定意見撤回をめる」沖縄県民大会が行われた。催者発表では11万6000人(宮古八重山の別会場含む)が集まったとされるが、沖縄県警幹部の話では4万人強しかいなかったとする産経新聞の記事を支持する意見も根強い。

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