OB | |
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柳田聖人 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮崎県延岡市 |
生年月日 | 1969年5月28日 |
身長 体重 |
179cm 73kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト3位 |
引退 | 2001年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
延岡工業高等学校へ進学。エースピッチャーとしても登板する内野手として活躍。3年時には夏の甲子園大会に出場し、3回戦まで勝ち進んでいる。
1987年ドラフト会議にて、南海ホークスから3位指名を受け入団。同期入団には吉田豊彦・若井基安・大道典良・吉永幸一郎・村田勝喜らなど、プロの舞台でも活躍した選手が多い年度である。
プロ入り4年目の1990年、アメリカマイナーリーグへ野球留学し、現地のマイナーリーグのオールスターゲームにも出場。シーズン終盤に帰国すると、一軍初昇格を果たし、8試合の出場ながら打率.316を記録している。
このままブレイクするかに思われたが、当時のダイエーには柳田と似たタイプの選手が多かったほか、藤本博史など強打の内野手もいたことから一軍定着には至らず。二軍では1992年に盗塁王を、1993年には首位打者を獲得するなど、いわゆる『二軍の帝王』のような状態となっていた。
1993年シーズンオフ、高野光とのトレードでヤクルトスワローズへ移籍。
1994年には主に代走や守備固めとして53試合に出場したが、翌年1995年は一軍出場無しに終わる。同年シーズンオフに、田畑一也・佐藤真一とのトレードで、古巣ダイエーに復帰。
1996年、不振を極めた松永浩美に代わり、サードとして起用される事が多く、61試合に出場。だた、打率は.216と数字は残せなかった。
1997年、内野のユーティリティプレイヤーとして様々なポジションを守り、レギュラーに定着。110試合に出場し、打率.245、1本塁打、30打点と、チームの穴を埋めるバイプレイヤーとして重宝された。
1998年、自身初の開幕スタメンを勝ち取ると、小久保裕紀が不祥事と故障で離脱している間はサードのスタメンとして出場。夏にはオールスターゲームにも初出場を果たし、キャリア最多の124試合に出場し、打率.251、35打点を記録。
1999年、セカンドで浜名千広との併用を中心に、小久保が指名打者で出場する際にはサードとしても起用。121試合に出場し、打率.265、1本塁打、29打点を記録し、ダイエー球団初のパ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献した。
2000年、鳥越裕介や本間満の台頭もあり出場機会が大幅に減少。打率も.128と苦しんだ。
2001年、一軍出場無しに終わり、シーズン終了後に戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退した。
引退後、ダイエーや、徳島インディゴソックス、ロッテ・ジャイアンツ、香川オリーブガイナーズなどでコーチを務め、コーチを務めていない間には解説者として活動。
2009年を最後に解説者としての活動を終え、現在はスポーツ用品店「スポーツオーソリティ」に勤務している。
内野ならどこでも守れる器用さを武器に、チームの穴を埋めた名脇役。
1998年にオールスターゲームに小久保の代替選手として出場した際、東尾修監督から「小久保の代わりではないからな」と声をかけられている。
通算:9年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 555 | 1425 | 1233 | 133 | 293 | 3 | 114 | 21 | 82 | 12 | 88 | 17 | 129 | 25 | .238 | .281 |
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最終更新:2024/11/15(金) 01:00
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